ブリヂストンタイヤ(現ブリヂストン)の創業者である石橋正二郎は、原料相場のリスクと格闘した経営者として知られた。綿糸の先物市場で巨利を博したが、ゴム相場の暴落で大きな損失を被り、経営危機に陥ったこともあった。(写真はYahoo画像から引用)

 

 石橋は明治22年(1889)、福岡県久留米市に生まれた。明治39年(1906)に久留米商業学校を首席で卒業。本人は神戸高商(現神戸大学)に進学したいと考えていたが、父親の反対で実兄の重太郎とともに家業の仕立て屋を継いだ。翌年、着物や襦袢などの仕立てをやめ、足袋専業に転換した。その後、次々と工場を設営していった。

 

 大正6年(1917)、久留米工場を建設。昭和3年(1928)にはゴム靴製造を専門とする福岡工場を新設した。昭和5年(1930)、石橋は日本足袋社長に就任。翌年、ブリヂストンタイヤを設立し、昭和7年(1932)から自動車タイヤの輸出に着手するなど、事業規模を拡大していった。

 

 経営における石橋の信条は「最高品質と最低コスト」だった。原材料をいかに安く買い付けるかを最重要の課題とした。彼の才覚を発揮する場が、足袋の原料となる綿糸先物市場だった。

 

 時代は第一次世界大戦の最中で、戦争が続くと判断した石橋は、大阪三品取引所で綿糸を買いまくった。先物市場での強気の姿勢は大当たり。100万円近くの利益を得たという。戦争が終結し、ベルサイユ会議で講和が成立すると、大正9年(1920)に株式相場や商品相場は大暴落。相場の引き際を心得ていた石橋はこのとき、手痛い傷を負わずに済んだ。

 

 ハイリスク・ハイリターンとされる商品先物市場で全戦全勝することは難しい。石橋も例外でなかった。戦略物資とされたゴム相場の予測は綿糸相場の比ではなかった。自動車タイヤ製造に乗り出した際、石橋はゴム相場と格闘することになる。

 

 昭和25年(1950)、朝鮮戦争でゴム相場は高騰を演じた。ところが、休戦で一転して暴落した。買い付けた価格の約3分の1まで下げ、石橋の損失は30億円に膨らんだ。現在の価格で1,000億円を超す額とされる。創業以来の経営危機を銀行融資で切り抜けた。

 

 石橋は戦後、自社の経営はもとより、経団連の常任理事に就任するなど、財界活動に尽力した。また、昭和27年(1952)にブリヂストン美術館を開館させたほか、昭和31年(1956)には石橋財団を設立し、社会貢献にも寄与した。

 

 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。