アラビア石油を創業した山下太郎。アラビア太郎、満州太郎をはじめ、昭和の天一坊、バッタ屋、プレゼント魔など、多くの異名で呼ばれた山下は、山師魂を貫いた生涯を送った。(写真はYahoo画像から引用)

 

 明治22年(1889)生まれの山下は、慶応義塾を経て札幌農学校(現北海道大学)に進む。明治42年(1909)に卒業すると、東京・深川で山下商会を立ち上げ、ブローカー業務を始めた。肥料や鉄の仲介業は商売として妙味があったという。

 

 ロシア革命の最中には、部下らを極東ウラジオストクに派遣。缶詰の買い付けを行い、大きな利益を得た。米国からはブリキを輸入して大儲けした。「折から第一次世界大戦景気で商品相場は大混乱を演じていた。乱世型の勝負師・山下には格好の舞台設定であった」(『日本相場師列伝 栄光と挫折を分けた大勝負』鍋島高明著)

 

 大正9年(1920)3月、大戦景気の反動で市場はパニック状態に陥る。ブリキ価格も暴落の一途を辿った。当時、東京・麹町に広大な邸宅を構えていた山下はこれを処分せざるを得ず、借家住まいの生活へと転落した。

 

 第1次世界大戦中、山下は満鉄社宅建設にかかわるビジネスで大儲けし、いつしか「満州太郎」と呼ばれるようになった。第2次世界大戦では、日本の敗戦によって再び無一文となってしまったが、ここで挫けることはなかった。

 

 転機が訪れたのは昭和31年(1956)だった。石油の時代が到来すると確信していた山下は「日本輸出石油」を設立。満州時代の人脈を生かし、資本金10億円を積み上げた。石坂泰三、藤山愛一郎、桜田武ら日本を代表する財界人を役員として迎えた。プレゼント魔と呼ばれた山下は、稀代の人たらしでもあった。2年後の1958年、山下はアラビア石油を創業した。古希を前にした69歳だった。新たなニックネーム「アラビア太郎」も加わった。

 

 山下の山師魂は父親譲りだったかもしれない。彼の父親は、天下の糸平といわれた大相場師・田中平八の小僧となり、博才に恵まれたという。「山師大いに結構、いまこの世に一番大事なのは山師の根性ではないか」-山下太郎語録として最も有名とされる一節である。

 

 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。