石油産業の歴史で、商業生産が始まった1860年代は「競争の時代」、1870年代は「企業統合の時代」とされる。このなか、企業買収を盛んに繰り返し、事業を拡大していったのが石油王と呼ばれたジョン・D・ロックフェラーだった。(写真はYahoo画像から引用)

 

 ロックフェラーの経営の基本戦略は、当初から経営規模の拡大に焦点を当てていた。ロックフェラーとそのグループは1870年、世界最大の石油センターとされたオハイオ州クリーブランドで資本金100万ドルのスタンダード石油(オハイオ)を設立した。

 

 『石油を支配する者』(瀬木耿太郎著)によると、水平的、垂直的統合で先頭を走っていたロックフェラーグループだったが、そうした動きに拍車がかかったのが1870年代だった。そのきっかけは原油価格の暴落だった。1871年から74年にかけ、米国の原油生産は年間580万バレルから1,100万バレルに増加する一方、価格は1バレル当たり4.40ドルから74年には1.15ドルに下落。製油所の経営は厳しくなっていった。

 

 スタンダード石油は当時、この逆境から抜け出すため、石油を輸送する鉄道会社から優遇措置を得た。運賃割引だけにとどまらず、ドローバックを鉄道会社から得たのだった。これはスタンダード石油の競争相手の製油所が自社の貨物に対して払った運賃の一部であった。

 

 ただし、この事実はスタンダード石油の独占体制が完成するまで公表されず、後に暴露され、大いに非難された。ロックフェラーの名声に汚点を残したが、結果的に全米各地の製油所を次々と統合していくことになった。

 

 独占体制を完成させたスタンダード・グループ。1884年には全米の製油所能力の77%、石油製品の販売シェアが85%強に達したと推定されるなど、他の追随を寄せ付けない、巨大なエネルギー産業に成長していった。

 

 ロックフェラーの次のターゲットは、石油パイプラインを支配下に置くことだった。当時、パイプラインを運営会社は4大系列に集約され、そのうち3系列が鉄道会社の支配下にあった。石油産業の一貫操業が崩れる状況を避けるため、スタンダード石油はまず、子会社をつくり、自らパイプラインの敷設工事に着工するかたわら、系列外の送油管会社やこの分野で立ち遅れていたニューヨーク・セントラル鉄道を味方に引き入れた。

 

 最後の難関がペンシルベニア鉄道グループの存在だった。石油ダンピング合戦の結果、この鉄道会社も1877年、スタンダード石油の軍門に下った。こうしてロックフェラーはほとんどすべてのパイプライン会社を支配下に収めることに成功した。

 

 以下、次回に続く・・・。

 

 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。