鉱山技術者だったフランク・ホームズは第一次世界大戦中、英連邦軍の補給担当として従軍し、中東地域で軍功を挙げ名誉少佐の称号を得た。ただ、終戦後も帰還せずにそのまま当地にとどまった。“石油で一発当てること”を夢見たためであった。(地図は赤線地帯。Yahoo画像から引用)

 

 従軍前に地質調査に携わっていた経験のあるホームズは、バーレーン島に関する報告書を読み、中東地域に関心を寄せるようになったという。それは「石油集積の地質学的必要条件である地層の背斜構造(お椀を伏せた形)が、バーレーンに存在する可能性を示唆していた」(瀬木耿太郎著『石油を支配する者』)からだった。

 

 英バーミンガム大学のジョージ・マドウィック教授のアドバイスを求めたホームズは1924年、バーレーンの首長から10数本の採掘権を取得した。(翌25年に延長可能な2年間の採掘権に切り替えられた)

 

 同時期、ホームズはサウジアラビア東部のハサ地区と、クウェートの鉱区利権に関する交渉権を得た。サウジ国王のイブン・サウード(アブドル・アジズ)は利権と交換に年2,000ポンドの金貨を支払うとするホームズの申し出を受け入れた。ただ、サウジの利権については、ホームズが2年後に2,000ポンドを支払えなくなったため、イブン・サウードは利権の無効を一方的に宣言してしまったという。

 

 取得した利権を石油会社に売りつけるのがホームズの狙いだったが、そう簡単ではなかった。スイス人の地質学者を雇い、石油探査を行ったものの、期待した成果は上がらず、資金が尽きてしまったため、石油利権の買い手を求めてロンドン、ニューヨークをまわった。

 

 1925年末、ロンドンを訪れたホームズに対し、誰もバーレーンの石油利権に興味を示す人はいなかった。約1年後、ホームズはニューヨークに渡った。スタンダード石油会社(ジャージー・スタンダード)が興味を示したものの、結果的に契約には至らなかった。当時、欧米の石油関係者たちはバーレーンではなく、イラクでの利権交渉を重視していたという。

 

 ニューヨーク訪問も当初、徒労に終わったが、1927年11月にようやく買い手が現れた。ガルフ石油がホームズの利権を5万ドルで買い取ったのだ。(㊟赤線協定により、ガルフは後にバーレーンでの利権を手放し、ソーカル=スタンダード・オイル・オブ・カルフォルニアに売り渡した)。

 

 ところで、ホームズは1874年、父親が橋梁関係の仕事に従事していた関係で、ニュージーランドの労働キャンプで生まれた。17歳のとき、南アフリカで金鉱を営んでいた親類のもとで修業を積み、その後、金や錫の鉱山技術者として豪州や南米、アフリカなど世界各地を渡り歩いたという。

 

 中東の石油埋蔵で精度の高い予測を提供したホームズに対し、アラブ人たちはアラビア語で石油の父を意味する「アブ・ナフト」というあだ名を付けたという。


 

 赤線協定は1928年7月31日、当時のトルコ石油(後のイラク石油)の出資者間で締結された協定。トルコ石油に参加していた企業がエジプトとクウェートを除く旧トルコ領内で石油事業に単独で従事することを禁止する条項で、その適用範囲が赤線で地図に示された。


 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。