甘藷(サツマイモ)の普及に貢献した人物として青木昆陽は有名だが、もう一人、忘れてはならないのが江戸中期の幕臣、井戸平左衛門正朋(正明の表記もある)だろう。井戸は中国地方に甘藷を広めた先駆者であった。(写真は井戸正朋像。Yahoo画像から引用) 

 

 寛文12年(1672)生まれの井戸は俸禄150俵の幕臣で、若いころは登用されることはなかったが、享保16年(1731)に初めて石見国(現在の島根県)爾摩郡大森の代官に任ぜられた。井戸が60歳のときだった。この時代、すでに隠居の身となる年齢だったが、井戸はここから真骨頂を発揮した。

 

 享保16年は諸国不作の年として知られ、大森地区も例外でなかった。凶作が続き、多数の餓死者が出た。この光景を目の当たりにした井戸はただちに行動に移す。志のある富豪に穀を提供してもらったほか、有志からの資金をもとに他国から米穀を買い入れて村々に配り、窮民たちを救った。

 

 凶作は翌年も続き、大森地区はさらなる飢饉に見舞われた。そこで井戸は決断した。「このうえは、わが一命をもって民を救おうと決心し、自分の持ち物はもちろん、陣屋の金銀をみな出して窮民に与え、不作の中よりたくわえた年貢米も与え、この年の年貢は全部免除をした」(小柳輝一著『日本人の食生活-飢餓と豊穣の変遷史』)。

 

 井戸の行為は代官の権限を遥かに越えたものであり、彼自身も越権行為であることを十分に理解していた。「わが身の罪を恐れて、民の餓死をみるのは仁者のすることでない。されば、民のために罪を得るは少しも悔いはない。民のために一命を捨てんことこそわが平生の志なり」(同著)。井戸の決意に手代の面々も納得したという。

 

 石見の地形は西北を海に臨み、山々が海岸に迫っているため、耕作地は限られ、しかも虫害が発生しやすい土地柄であった。享保17年は飢餓を一時的に凌げたものの、いつまた、大飢饉に襲われるかもしれない。井戸はこの土地に適した穀物はないかと、思案に暮れていた。

 

 そうした矢先、薩摩の僧侶、泰永が石見を遊歴し、井戸と面会した。この僧侶との邂逅こそが、井戸が後に「芋代官」、「芋殿様」と称されるきっかけとなった・・・。 (次回に続く)

 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿