幕末の経世思想家で、国学、農学、兵学などを修めた佐藤信淵は「鉄は金(ゴールド)よりも貴し」と喝破した。製鉄こそが国の発展をもたらす源であると主張したのだ。(写真はYahoo画像から引用) 

 

 佐藤は明和6年(1769)、出羽国(現在の秋田県)雄勝郡で生まれた。天明年間には諸国を遍歴。蝦夷地(北海道)、日光、足尾銅山から西国の津山などを訪れたという。寛政元年(1781)に一時帰郷した後、3年後に江戸の京橋で医業を始めた。

 

 文化10年(1813)には国学者の平田篤胤に入門。その後、入牢などを経て下総国船橋、武蔵国鹿手袋村などに移住したほか、盛岡藩にも仕官した。この間、『宇内混同秘策』、『天柱記』、 『経済要録』、『農政本論』、『内洋経緯記』などを著した。天保10年(1839)に起きた「蛮社の獄」に連座したもの、佐藤は罪を免れた。

 

 数々の著作のなか、文政10年(1827)に著した『経済要録』で、佐藤は経済の重要性について創業、開物、富国、垂統の4つを掲げ、農政のほか、国家を運営する上で鉄が必要であると強調した。その箇所を以下、『鉄鋼』(市川弘勝著)から孫引きする。(原文ママ)

 

 「鉄は人世に功徳すること七金中第一たり。金銀は世の尊重する所なれども、人民の性命を保護するには無しと雖も害すること鮮し。惟り此の鉄に至ては、人世一日もなくて叶わざるの要用物たり。国家に長たる者は此を採るの法を講明せずんば有る可らざるなり」(『経済要録』)

 

 当時はたたら吹きによる砂鉄精錬法が実施され、かなり良質の鉄や鋼を生産していたものの、産業革命への基盤と整っていない幕末の日本にあって、近代鉄鋼業の水準になかった。

 

 明治期に入ってから釜石製鉄所や陸海軍の軍事工場は近代的な製鉄技術の発達の先駆となった。後の官営八幡製鉄所の設立までの基礎となったことは言うまでもない。

 

 嘉永3年(1850)、佐藤は82歳でこの世を去る。明治42年(1909)には平田篤胤を顕彰し、崇敬するために創建された平田神社を母体とする彌高神社(秋田市)に合祀された。

 

 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿