コメ先物取引の本上場への移行を管轄官庁である農林水産省に申請していた大阪堂島商品取引所(堂島商取)はこのほど、上場継続を断念する方向で調整に入った模様だ。「読売新聞」(7月29日付)の報道によると、取引参加者が増えていないことなどを理由に農水省が認可基準を満たしていないと判断したという。認可されなければ、国内で唯一(試験)上場されているコメ取引が消滅する危機にある。(写真はYahoo画像から引用)

 

  堂島商取は7月16日、コメ先物取引の本上場への移行を農水省に申請したと発表した。試験上場の期限が今年8月7日に迫り、農水省は1カ月程度かけて申請内容を審査するとしていた。堂島商取は本上場への移行によって取引量を拡大し、コメ価格の指標形成を目指すと強調する。

 

 日本の商品先物市場における試験上場制度は、期間を限定した上で売買状況などの推移を検証する仕組みである。堂島商取のコメ取引は2011年に試験上場を開始した。その後、出来高の多寡、市場参加者が増えないなどの理由で期限2年の試験上場を繰り返してきた。現在、5回目の試験上場となる。

 

 堂島商取での取引量は6月に月間売買高が13万22,300枚を超えるなど過去最高を記録し、本上場に向けた機運が盛り上がってきているが、それよりも当業者と呼ばれる市場参加者が増えないことが問題視されている。全国農業協同組合中央会(JA全中)が先物市場の創設に終始、反対の姿勢を示していることが上場可否に大きな影響を与える。国内コメ流通で圧倒的な支配力を持つJA全中の存在は無視できない。

 

 コメ先物の本上場に向けた展望について、国内のある商品取引員は「全中が市場参加しない限り、堂島商取での本上場はないと言い切ってよい。価格支配している全中がその旨みを手放すわけがない。彼らは先物市場で投機家がコメ需給を無視する取引で価格の平準化につながらないと拒否の姿勢を貫くだろう」と手厳しい見方をしている。

 

 コメ先物取引は江戸時代、大坂堂島が嚆矢とされ、帳合米取引として知られた。先物王国と呼ばれる米シカゴで先物取引が始まったのは1865年とされる。堂島での帳合米取引はシカゴに遡ること130年以上も前に取引が行われていた。特筆すべきは、現在の先物取引に近い取引システムが堂島で導入されていたという事実だ。シカゴ商品取引所(CBOT)ビルには、堂島のコメ取引を説明するレリーフが掲げられ、先物発祥の地として敬意が払われている。

 

 日本では、第二次世界大戦中の統制経済や、戦後の食糧管理法のもとでコメ先物取引が一切、認められてこなかった。コメ上場に向けた動きが出たのは2004年だった。同年の改正食糧法の施行で先物取引が認められる下地が出来上がった。2005年12月には、東京穀物商品取引所(東穀取)がコメ先物取引の上場を申請。これに続き、堂島商取の前身である関西商品取引所(関西商取)も2006年3月にコメ上場を申請したが、当時は時期尚早と認可されなかった。

 

 その後、コメ先物市場創設に向けた機運は下火となった感が強かったが、コメ価格センターの解散などで新たな価格指標の構築が必要とされ、俄かに先物市場へが注目されるようになった。こうした動きを追い風に、前述した通り、東穀取と関西商取は2011年3月8日、あらためて試験上場を農水省に申請し、いずれも試験上場が認可され、取引がスタートした。日本市場でコメ先物取引が72年ぶりに復活した瞬間だった。

 

 堂島商取は2013年2月、東穀取からコメ先物取引(東京コメ)を引き継ぎ、法人名称を「大阪堂島商品取引所」に変更した。今年4月には会員組織から株式会社に転換。その2カ月後、社名を「堂島取引所」に変更すると発表済みだ。

 

 農産物だけではなく金融派生商品(デリバティブ)も扱う総合取引所を目指す方針を明確にし、活路を見い出そうというわけで、7月をめどに変更する見通しとしていたものの、まだ実現していない。ただ、一連の流れはコメ上場が認可されなかった場合を想定しての動きともとれそうだ。

 

 実際、堂島商取が株式会社に転換した際には、SBIホールディングスと傘下のジャパンネクスト証券など8社から20億円の出資を受けたほか、民主党政権下で金融担当相を務めた中塚一宏・元衆議院議員を初代社長に選出するなど、デリバティブ取引所への移行を着々と進めているようにも映る。

 

在原次郎

Global Commodity Watcher