ロシアでジャガイモが導入されたのは、ピョートル大帝’(在位1682~1725)の治世であったとの説がある。(写真はピョートル大帝、Yahoo画像から引用)

 

 ピョートル大帝はロシアの専制君主政であるツァーリズム体制を確立し、ロシアの大国化路線を推進した皇帝として知られている。1697年、ロシアの近代化を目指す目的で250人からなる大使節団を欧州に派遣した。

 

 その際、ピョートル大帝自身も偽名を使用して一行に加わり、英国やドイツの造船所などに一職工として潜り込んだ。身分を明かさなかったのは、儀礼に縛られずに自由に見て回ることや、自らがモスクワに不在という事実を国内外に示すためだったとされる。

 

 伊藤章治著『ジャガイモの世界史』によると、ピョートル大帝は訪欧で「ジャガイモ」に感動し、種芋一袋を本国に送り、ロシア国内で栽培を命じたという。伊藤氏は、このエピソードをR・E・F・スミス、D・クリスチャン著『パンと塩-ロシア食生活の社会経済史』から引用している。

 

 ジャガイモの味もさることながら、小麦の凶作や穀物不足が慢性的なロシアにとって喫緊の課題は食糧の確保であった。ピョートル大帝はジャガイモが強兵をつくりあげる上で不可欠とも考えていたとされる。

 

 大帝の肝入りで栽培が始まったとされるが、ジャガイモがロシアで普及するにはさらに時間を要した。栽培された品種が小さく、しかも苦い味しかしなかったため、庶民は茹でるのでなく、焼いて食すのが一般的だった。

 

 旧教徒たちからの反発も大きかった。信者のなかにはジャガイモが禁断の木の実であると信じ込む人たちも少なくなかったという。ジャガイモがロシア社会で市民権を得るような作物となったのは18世紀を通じてでなく、19世紀半ば近くになる。

 

 こうした経緯もあり、ロシアにおけるジャガイモ栽培の起源は「ピョートル大帝のエピソードとは異なり、7年戦争に参戦し、プロイセンから帰国した兵士が持ち帰った」との説もあるようだ。 

 

在原次郎

 ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。