「港都横浜」シリーズの1回目で、多くの商人たちや外国人らが開港で横浜への移住を快く思っていなかったことを取り上げた。一方で、横浜進出を好機と捉えた人物がいた。幕末の儒学者、思想家の横井小楠と、当地で経営に当たった岡倉覚右衛門だ。(写真は横井小楠、Yahoo画像から引用)

 

 肥後の熊本藩出身の横井は、藩政改革に奔走したものの、反対派による攻撃で失敗する。安政5年(1858)、越前福井藩主の松平慶永(春嶽)に招へいされ、福井藩の藩政顧問となった。富国策として貿易の重要性を唱えた横井は、開港まもない横浜に進出することを春嶽に進言した。

 

 その際、藩主の春嶽の命によって横浜での経営を任せることになったのが覚右衛門だ。覚右衛門は石川屋(越前屋)を開き、越前国産の生糸、絹紬を外国商館に売り込んだ。

 

 商売のかたわら、覚右衛門は横浜居留地で発行されていた英紙新聞『ジャパン・コマーシャル・ニューズ』などを入手し、外国人と積極的に触れ合った。海外情報をじかに聞き取り、書簡で横井に報告するなど、探索方の役割も担ったとされる。

 

 横浜で活動した藩営商社の石川屋は明治維新の後、廃藩置県で閉鎖されることになった。ところで、覚右衛門には幼少時に病没した港一郎、覚三、由三郎の息子たちがいたが、覚三は後に『東洋の思想』や『茶の本』などを著した岡倉天心である。

 

 また、天心の弟である由三郎は英語学者、英文学者として東京高等師範学校(現在の筑波大学)の教授などを務め、英和辞典の編纂に携わるなど、英語教育の普及に尽力した。

 

 一方、横井は明治元年(1868)、新政府に招かれ、徴士参与に任ぜられたが、尊攘派志士らによって暗殺された。

 

 横井の思想は坂本龍馬や勝海舟らに多大な影響を与えた。人物評などを盛り込んだ『氷川清話』で、海舟は「いままでに天下で恐ろしいものを二人見た」とし、横井と西郷南洲(隆盛)の名を挙げたことは有名な話だ。

 

㊟「生糸で繁栄を築く港都横浜」の3回目は、生糸取引で莫大な富を築いた原善三郎と原三渓を取り上げる予定

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。