昭和11年(1936)に発生した、陸軍青年将校らによるクーデター「二・二六事件」で悲業の死を遂げた高橋是清は日銀総裁や蔵相、首相を歴任するなど、日本政治史に大きな足跡を残した。高橋は若いころ、米相場をはじめ、鉱山投資などで大きな損失を被ったが、その事実は案外知られていない。(写真はYahoo画像から転載)

 

 明治13年(1880)、高橋は米仲買の商店「六二商会」を米取引のメッカであった東京・蠣殻町に開設した。仲買人を雇い入れ、米相場で人山当てようと意気込んだものの、思惑通りにならなかった。作家の津本陽が小説『生を踏んで恐れずー高橋是清の生涯』で、以下のように活写している。

 

 「仲買人は、なじみの客の注文は場を通して売買取引する。新規の客の注文は、証拠金をとって、取引の場に出さない。客が損をする相場になると、追証拠金をきびしく取り立てる。客が払えなければただちに決済をして、最初に受け取った証拠金は取り上げ、不足分は現金か証文で取る。客が利益を取れる相場になったとき、決済を求めてくると、売らないようにすすめ、そのうち損の出る相場になると、追証拠金を取る。『なるほど、相場とは博打か』」

 

 相場のなんたるかを悟った高橋は4カ月後に廃業した。巨額に膨らんだ赤字を六二商会を預けていた仲買人と折半することで決着したという。高橋は米相場以外でも北海道の原野に絡む不動産投資の失敗や、南米の銀鉱山への投資話で騙されるなど、投機がらみで痛い目に遭った。ただ、こうした苦い体験が後に政治家としての胆力をつけたとの指摘もある。

 

 米相場で一敗地に塗れた高橋は明治18年(1885)、海外の特許制度を調査するため、日本政府から欧米出張を命じられた。当時、専売特許所長だった高橋は米国シカゴを訪問した際、家畜処理場に足を運ぶとともに、当地の商品取引所を視察したという。

 

 商品先物取引の本場シカゴ。ピット(立合場)における投機家たちの熱気溢れる売買の様子を目の当たりにした高橋は何を思ったのか-大いに気にかかるところでもある。


 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。