いまから110年ほど前のことだ。1910年は日本の韓国併合、大逆事件で幸徳秋水らが検挙される(翌年に処刑)など、暗い世相を反映した年だった。他方、フランスに留学し、カフェ文化に触れた文士や画家たちを中心に「パンの会」が結成された。日本にもカフェ・レストランのような場がほしいとの機運が高まり、東京・日本橋小網町に西洋料理店「メイゾン鴻の巣」がオープンしたのも同じ1910年だった。(写真はパリのカフェ。Yahoo画像から転載)

 

 メイゾン鴻の巣に集まったのは、パンの会やスバル、三田文学、新思潮の同人らで、与謝野鉄幹、木下杢太郎、北原白秋、小山内薫、永井荷風、久保田万太郎、吉井勇、岡本一平、谷崎潤一郎らいずれも明治・大正時代を代表する文化人たちだった。

 

 パンの会は、明治末期の文芸・美術家らの懇談会で、耽美的傾向の新しい芸術運動を展開した。発足は1908年、スバル系の白秋・杢太郎・吉井勇、美術同人誌『方才』に集結した画家、石井柏亭や山本鼎らが文学と美術の交流を目的に興した。

 

 スバルは1909年から1913年まで刊行されたロマン主義的な月刊文芸雑誌で、森鷗外や与謝野鉄幹らの協力で発行された。創刊時の発行人は石川啄木。鷗外の『青年』、『雁』などを掲載した。

 

 新思潮は東京帝国大学を中心した文芸誌で、1907年に小山内薫が創刊、チェーホフの翻訳劇などを掲載した。1910~11年の第二次には、谷崎潤一郎、和辻哲郎、芦田均らが参加。谷崎はデビュー作『誕生』や出世作『刺青』などを発表した。三田文学は1907年、慶応義塾大学文学部教授だった永井荷風を主幹に創刊された。

 

 メイゾン鴻の巣の主人は奥田駒蔵だった。彼はフランスの日本公使館の元料理人で、帰国後、かの地に店を構えた。コーヒーを飲み、西洋酒に酔い、料理に舌鼓を打つことで文人たちを恰も芸術の都パリにいる心地にさせようとしたのだった。芥川龍之介は『羅生門』を著したが、その出版記念会もここで催された。

 

 “学匠詩人”と称された日夏耿之介はメイゾン鴻の巣を「文士の巣窟」(『明治大正詩史』)と表現した。東京をパリに、隅田川をセーヌ川になぞらえ、青春彷徨の宴を享受した文化人たちの談論風発の場であったメイゾン鴻の巣はオープンから10年後の1920年、東京・京橋に移転した。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。