過日、千葉幕張メッセで行われた、モノづくりワールドで特別講演を行った、SUBARU執行役員、航空宇宙カンパニーヴァイスプレジデントの若井洋氏は、かつて同社が、「東洋最大の航空機メーカー」だった「中島飛行機」から続く、航空機生産の技術を歴史から振り返った。

 

 SUBARUは、ご存じのように元々「富士重工」という社名で、戦後から長い間企業活動を行ってきたが、その源流は、東洋最大と言われた航空機メーカー「中島飛行機」である。

 

 SUBARUの大元である中島飛行機は、1917年、元海軍大尉、そしてのちの政治家である「中島知久平」により設立された「飛行機研究所」という組織から出来上がった企業で、大戦中、陸軍機としては一式戦闘機「隼」、四式「疾風」二式「鍾馗」、海軍機としては、二式水上戦闘機、九七式艦上攻撃機、艦上攻撃機「天山」、偵察機「彩雲」、夜間戦闘機「月光」、そして、三菱が開発した、ゼロ戦こと「零式艦上戦闘機」の搭載エンジンである「栄」を開発するなど、航空機の機体、そしてエンジンメーカーとしても当時から技術力は世に知れ渡っていた企業だ。

 

 

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(中島飛行機、後のSUBARUの創設者となる、中島知久平。写真;Wikipedia)

 

 

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(戦時中の陸軍機「隼」。三菱の零式艦上戦闘機に負けず劣らずの高性能戦闘機だった。写真;Wikipedia)

 

 

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(開戦当時の海軍の主力攻撃機として有名な九七式艦上攻撃機。開戦の号砲となった真珠湾攻撃では、先兵となった。写真;Wikipedia)

 

 

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(ゼロ戦、隼の搭載エンジンとなった「栄」。ゼロ戦の機体は三菱重工が開発したが、搭載されたエンジン「栄」はまさに中島飛行機の開発となっていた。写真;Wikipedia)

 

 

 戦中に生産した航空機は、2万5935機、生産エンジンは4万6726基に及ぶ。この数字が、東洋最大と言わしめた所以である。

 

 有名な話だが、かつて大戦中に世界の空を席巻した日本軍機を開発した技術者たちが、戦後GHQによって、一切の航空機開発を禁じられ、その技術者たちの技術と知力を生かし、開発された日本車が、世界の道を席巻することになり、世界中で日本車が走る現在を作り上げた。

 

 同社についても、戦後は優れた自動車を開発し、「インプレッサ」「フォレスター」など走行性を重視した自動車開発につながる事になる。同時に、現在では、官庁、防衛向けのヘリコプターの開発、販売や、ボーイング787などの部材を生産するまでに至っている。

 

 同社の拠点としては、元々中島飛行機の工場があり、その敷地内に滑走路まである中心拠点、宇都宮工場や、B-787の中央翼を生産している愛知県の半田工場などがある。

 

 この中央翼については、777シリーズ、787シリーズ、そして次期主力機として期待される777Xの中央翼を生産している。中央翼は、胴体と両翼を繋ぐ非常に重要な部位であるが、その重要な部位の生産というその任を受けたのが、かつての東洋最大の航空機メーカーの遺伝子をうけ次いだSUBARUである。

(続く)

 

 

(文:金剛たけし)