三井物産初代社長の益田孝は日本貿易界の先駆者としての顔を持つほか、商況紙『中外物価新報』を創刊し、経済情報の重要性を世に知らしめたことでも知られる。特筆すべきは、この紙面の一面で正米、期米、雑穀、鉄の相場などを報じるなど、商品(コモディティ)情報が満載されていたことだ。『日本経済新聞』のルーツが中外物価外新報である。(写真はyahoo画像から転載)

 

 『日本経済新聞百年史』によると、中外物価新報の創刊は明治9年12月2日。毎週土曜日印刷、日曜配達の週刊でスタートした。紙型はタブロイド版よりやや大きめで、4ページ建て。本文はトップに「東京景況」の柱見出しで、公債証書、正米、期米、雑穀、水油、塩、酒、西洋薬種、鉄の値段を掲げていた。第2面には長崎、新潟、名古屋、信州上田、美濃岐阜、播州姫路など各地の物産品の相場、第3~4面はロンドン商況電報、英米通信、香港通信、上海通信、横浜輸出入品相場などの情報で紙面が埋め尽くされ、産業人の必読紙となった。

 

 創刊までのいきさつについて、益田は「勧業局長(実は商務局長)の河瀬秀治という人が、どうも商業上の通信がちっとも来なくて困っている。商業上の知識を普及する新聞を作れというて、私にしきりに勧める。よろしゅうござります。作りましょうというて作ったのが、今の『中外商業新報』である。最初は『物価新報』というた」(長井実編『自叙益田孝翁伝』と語っている。

 

 当時、欧州視察を終えた渋沢栄一は英国でロンドン・タイムズの実況に触れた上、経済知識の啓発を念願としていたので、経済新聞の発行に賛意を示し、益田を激励したという。また、新聞の印刷や販売など実務面で益田は福地源一郎(桜痴)日報社社長に相談、日報社が印刷を引き受けることになった。

 

 当初、中外物価新報の所有者は三井物産だったが、明治15年7月に三井に代わる新たな発行主体として「匿名組合商況社」が設立された。出資者は益田、渋沢のほか、原六郎(横浜正金銀行頭取)、今村清之助(今村銀行頭取)、安田善次郎(安田銀行頭取)ら財界の大物たちが名を連ねた。

 

 中外物価新報はその後、明治22年1月27日に『中外商業新報』へ、昭和17年11月1日に『日本産業経済』へとそれぞれ改題され、昭和21年3月1日、『日本経済新聞』に名を変更し、現在に至る。

 

 益田は引退後、神奈川県小田原の掃雲台の別荘で過ごすことが多かったそうだ。「その中心にあるのが茶道で、晩年は『茶人鈍翁』として世に知られた」(小島直記著『三井物産初代社長』)。鈍翁という雅号とは裏腹に、一身を賭して混乱期の日本経済の発展に奔走した益田は昭和13年12月28日、肺炎のため90年の生涯を閉じた。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。