父親と息子との確執はある時期、程度の差こそあれ、誰もが経験するだろう。小説の神様と呼ばれた作家、志賀直哉(写真)の場合、父親との不和に加え、祖父の存在も看過できない。祖父の影響は後に志賀文学のバックボーンとなるほど大きな意味を持っていたとされる。足尾鉱毒事件をめぐり対立が激化した直哉と父、そして祖父との関係について取り上げる。(写真はyahoo画像から転載)

 

   志賀直哉の祖父、直道はかつて、相馬藩主の家令を務めていた。二宮尊徳に師事していたが、相馬事件で冤罪を被り拘留される羽目に陥る(後にその冤罪は晴れる)。その後、倒産した小野組に相馬家の財産を融資していた関係で、小野組の番頭であった古河市兵衛と親交を結ぶことになった。古河が栃木県の足尾で銅山開発に乗り出すにあたり、援助の手を差し延べたのが直道だった。

 

  足尾銅山開発は近代日本の経済を支えた一方、それに伴い発生した鉱毒事件は日本最初の公害として歴史に汚点を残した。(㊟ 鉱毒事件が社会問題化したとき、直道はすでに古河との関係は途絶えていた)

 

  学習院の学生だった直哉は当時、名誉や地位をなげうって鉱毒問題の解決に一身を捧げた田中正造の生き方に感銘を受けた。正義感にかきたてられた直哉は、鉱毒が流出した渡良瀬川沿岸に住む村民の被害調査キャラバンに出かけようと決意する。ところが、父親の直温から猛烈に反対された。このとき、二人の激しいやりとりを直道は瞑目し、黙って聞いていたという。結局、母親のとりなしで直哉は足尾行きを断念、古着などを被災民に送ることで落着した。明治34年、直哉19歳のときだった。

 

  足尾鉱毒事件は、多くの学生たちに社会問題への関わりを促す契機にもなった。東京帝国大学の学生だった河上肇、後に雪印乳業を創業する黒沢酉蔵らが若い正義感で立ち上がった。また、木下尚江、荒畑寒村ら社会主義者たちが村民らに寄り添い、鉱毒問題を糾弾した。

 

  昭和31年、70歳を超え、老境にあった直哉は『祖父』という作品を発表した。父親との対立を描いた場面で黙考する祖父の直道について、次のように描写している。少し長くなるが、その部分を引用する。

 

  「二人は茶の間で論議した。其時祖父はいつも坐る所に坐って柱に倚りかかり、眼をつむっていたが、最初から仕舞いまで、一言も口を開かなかった。私はその時、祖父の気持ちなど別に考えなかったが、後で思うと、尊徳の弟子であり、農作物には人一倍関心を持って、その頃、今の霞町の都電の通っている所が田圃だったので、祖父は秋になると、前に百姓であった門番の熊吉をよく其所にやり、稲作の出来を見て来させた。そういう祖父が自分で云い出して古河にやらせた足尾からの鉱毒で苦しむ農民の問題で自分の子と孫が口論するのを黙って聴いていたのだ。その気持ちは複雑だったろうと思う。私は後で気がついて、仕舞いまで一言も云わなかった祖父に対し、何か気の毒な気持ちがしてきた」。(一部現代仮名遣いに変更)

 

  足尾鉱毒事件をめぐる父親との不和、祖父の存在は、志賀直哉が名作『暗夜行路』や『和解』を生み出す原点になったとされる。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。