太宰治、坂口安吾らとともに無頼派作家と呼ばれた織田作之助(写真)。『夫婦善哉』の代表作で一世を風靡したが、実は小説家として本格デビューする前、取材記者として非鉄金属を担当していたことがあった。大谷晃一著『生き愛し書いた―織田作之助伝―』(沖積舎)からエピソードを紹介する。(写真はyahoo画像から転載)

 

  作之助が日本工業新聞社に入社したのは昭和14年9月1日。大阪鉱山監督局(東成区勝山通8丁目)詰めで、銅や真鍮の生産・消費動向、企業業績などのネタをカバーしていたという。新米記者としてスタートを切った作之助は、当初から後の無頼派作家誕生を予見させる言動が目立った。出社時間は午前9時だったが、作之助は毎日のように遅刻した。

  出社後も喫茶店で時間を潰した後、午後2時過ぎに社に上がる。「作之助は、蒼白い神経質な横顔をいくらか傾け、細長い指先に紙巻き煙草をはさみ、天井向けて輪の煙を吹き上げながら、さらさらと記事を書き流す」。書き上げると、素早く消えた。古手の記者を押し退け、記事は二段、三段扱いとなったことが多かったそうだ。ただ、デスクや先輩記者、整理部には評判が悪かった。

  記者時代、織田作之助の記事作成の手法は他紙の記事をうまく混ぜ合わせ、そこから業界全体の見通しを立てる。一種の創作だったが、それが読者に受けたことも事実だった。

  創作に関して二つのエピソードが残っている。まず、四国に出張し現地見学記を書くことになっていたが、現場に足を運ばず自宅で待機。鉱山監督局の役人が四国から帰ってきたところをつかまえ、話を聞いて記事を作り上げたこと。

  また、来阪する商工大臣とのインタビューを命じられたが、実際に会わずに一問一答を書いたそうだ。ただ、これは確証度が落ちるようだ。そして「だんだんと新聞記者勤めをなめるようになった」。

  一方で、作之助の作家としての資質を見抜いていた人情家がいた。日本工業新聞と夕刊大阪の編集局長を兼ねていた鷲谷武だ。彼の計らいで作之助は夕刊大阪の社会部に配置換え、文芸欄に雑文的記事を書くことになったのだ。

  昭和15年半ば、作之助は(日本工業新聞と事実上同じ組織だった)夕刊大阪の社会部へ転籍。捨てる神あれば拾う神ありだが、そうした機会を与えてくれたにも拘わらず、当の作之助は仕事をせずに、しばしば所在不明になったという。

  昭和17年4月、作之助は夕刊大阪新聞社を退社し、筆一本の生活を決意する。会社という組織の枠に納まりきれなかった作之助はその後、作家として活躍することになるが、与えられた時間は限られていた。昭和22年1月10日、肺結核による窒息死でこの世を去る。35年の無頼人生だった。

 

在原次郎(ありはら じろう)

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。