米国の起業家、イーロン・マスク氏がブラジルを丸ごと買ってしまうのではないか、と陽気なブラジル人が冗談を交わしたのは、5月20日のことだった。

 

 米国テキサス州を離陸したガルフストリーム・エアロスペース社製のマスク氏のプライベートジェットは、同日午前10時、ブラジルの商都サンパウロの西約80キロにあるビジネス機専用のカタリーナ・エグゼクティブ空港に着陸した。マスク氏が目指したのは、空港から西に約30キロの地点にあるホテル・ファザーノ・ボア・ビスタだった。イタリア系移民が開業した5つ星ホテルは「世界で最も慎み深く、かつ洗練された空間」として、世界の富裕層の隠れ家になっている。

 

 ただ、マスク氏は休暇が目的ではなかった。ブラジル政府の招きに応じての訪問だった。ツイッター買収で「時の人」になったテスラとスペースXのCEOは、世界規模で政治家とのつながりを強めたいと考えていた。

 

 ホテルでは「南米のトランプ」と呼ばれるボルソナロ大統領がマスク氏を出迎えた。ファリア通信相とノグエイラ国防相ら閣僚5人を従えていた。ブラジルのビジネスリーダー13人も顔をそろえた。その中にはブラジルの投資銀行大手BTGパクチュアルのアンドレ・エステベス会長やブラジルの通信会社大手テレコム・イタリアのピエトロ・ラブリオラCEOらが含まれていた。

 

 ランチの席でマスク氏は、ボルソナロ大統領とエステベス会長に挟まれて座った。サンパウロの人気レストランが起源であるこのホテルは、地元の食材にこだわる。この日は、分厚く切ったステーキのフィレ・ミニオン、パルメザンチーズのリゾット、ティラミスなどが振る舞われた。

 

 マスク氏とボルソナロ大統領との会談については前日の19日、大統領本人がソーシャルメディアを通じて発表した。「世界的にも非常に重要な人物と会う」とだけ明らかにし、マスク氏の名前は伏せていた。サプライズ会談を演出するためだった。

 

 当日、ホテル周辺は厳重警備態勢となった。記者はホテルに近付くことすらできず、多くは遠方からヘリコプターの飛行、着陸などをチェックして動向を探った。

 

 ブラジルは今年10月に大統領選がある。ボルソナロ大統領は再選を目指している。しかし、新型コロナ対策の失敗や、極端に産業界寄りの政治姿勢、政策と一致しない発言などに国民は失望し、支持率は低迷している。大統領選に関する世論調査ではライバルである左派のルラ元大統領に大きくリードされている。マスク氏との会談は、選挙運動の一環であると、多くの国民はとらえている。

 

 ボルソナロ大統領の「お膳立て」に応じたマスク氏は、会談の前に自身のツイッターに次のように書き込んだ。

 

 「インターネットに接続されていない1万9000の学校のためにスターリンクを立ち上げるため、そして、アマゾン地区の環境監視をするためにブラジルにいることに、非常に興奮している」

 

 ブラジル政府は昨年11月、マスク氏が率いるスペースXとの提携を発表した。今回の会談ではその具体策として、スペースXの衛星通信ネットワークであるスターリンクを活用してアマゾンの森林保護や遠隔地の学校にインターネット環境を整備することを確認し、これらを明らかにした。

 

 ブラジルではアマゾン地区の開発を推進するボルソナロ大統領の元で、森林の違法伐採が加速し、熱帯雨林の破壊が深刻になっている。批判の矢面に立たされているボルソナロ大統領はマスク氏の力を借りて、逆風をかわそうとしている。

 

 一方、マスク氏にとってはブラジルに眠る資源を確保することが狙いにあったと言われる。

 

 マスク氏は4月、電気自動車のバッテリーに使用されるリチウムの価格が急騰していることについて次のように自身のツイッターに書き込んでいる。

 

 「リチウム価格は常軌を逸したレベルになっている。この状況が改善されなければ、テスラは大規模なリチウムの採掘と製錬を直接的に手掛ける必要が出てくるかもしれない」

 

 ブラジルのリチウム埋蔵量は世界の7位とも8位とも言われている。今回の会談でリチウム資源についての話がテーマになったかどうかは明らかになっていないが、マスク氏の頭の中にリチウムのことがなかったとは考えにくい。

 

 ブラジルの大統領選は資源大陸・南米の今後を左右すると言われる。マスク氏の影が見え隠れするようになれば、大統領選は一段と注目を集めることになる。

 

 南米ではコロンビアでも大統領選が波乱の展開となっている。5月29日に投開票が行われ、元左翼ゲリラのグスタボ・ペトロ氏が約40%の票を獲得し、約28%の得票だった右派「不動産王」のロドルフォ・ヘルナンデス氏と6月19日の決選投票で対決することになった。

 

 ヘルナンデス氏はソーシャルメディアを駆使した選挙戦を展開して大方の予想を覆し躍進した。決選投票に駒を進めたことで「コロンビアのトランプ」と呼ばれるようになった。

 

 両候補ともコロンビアの支配階級からの決別を訴えており、どちらが当選してもコロンビアは混乱しそうだ。

 

 

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Taro Yanaka

 街ネタから国際情勢まで幅広く取材。

 専門は経済、外交、北米、中南米、南太平洋、組織犯罪、テロリズム。

 趣味は世界を車で走ること。

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