写真 伊藤忠商事の第5代社長、越後正一は繊維相場の暴落でカラ売りし、巨利を掴んだことをきっかけに「相場の神様」と呼ばれるようになった。後に社長、会長を歴任し、相場師経営者として伊藤忠の黄金期を築いた。(写真はYahoo画像から引用)

 

 越後は明治34年(1901)、現在の滋賀県彦根市に生まれた。八幡商業、神戸高商(現神戸大学)を経て伊藤忠商事に入社。繊維相場とのかかわりを深めるようになったのは昭和23年(1948)、名古屋支店長に任命されたころだったという。当地では繊維相場の達人たちが大きな仕手戦を繰り広げていた。名古屋に赴任したことで、越後も否応なく、その渦に巻き込まれていった。

 

 そのなか、越後は、近藤紡績所の近藤信男という人物に出会う。近藤は当時、日本トップクラスの紡績王で、相場の大仕手だった。日本経済新聞社の「私の履歴書」で、越後は近藤について「不思議とよくウマがあった」と回想している。昭和48年(1973年)に近藤が亡くなった際、越後が葬儀委員長を務めたことでも、その一端がうかがえるだろう。

 

 大物相場師だった近藤との出会いのほか、越後の闘争心に火を付けたのが、伊藤忠の後輩で、福井支店長の藤田藤だった。藤田は後に副社長まで昇進した。彼は繊維相場で大儲けし、重役の座を射止めたのだった。藤田の存在を越後が意識しないわけはなかった。

 

 そうこうするうち、越後にチャンスが回ってきた。昭和26年(1951)、繊維相場が暴落した際、越後は大掛かりなカラ売りを仕掛け、10億円を超す利益を上げた。越後はこのころから「相場の神様」と呼ばれるようになった。「念願の大阪本社綿糸布部長のポストをつかむ。当時の綿糸布は伊藤忠の表看板であり、部長たる越後は千両役者である」(鍋島高明著『日本相場師列伝  栄光と挫折を分けた大勝負』)。

 

 相場の神様も躓くことがある。昭和28年(1953)3月、スターリン暴落、7月の朝鮮動乱終結で繊維産業も大きな打撃を受け、廃業に追い込まれる業者が続出した。契約解消の処理に奔走した越後も痛い目にあったという。

 

 昭和35年(1960)、社長に就任した越後は非繊維部門の拡充と積極的な海外進出を図り、総合商社への道を突き進んだ。社長在任中の14年間で売上高を10倍増やすなど、中興の祖として伊藤忠の黄金期を築いた。

 

 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。