黒部ダム(富山県)の建設に心血を注ぎ込んだ関西電力の初代社長-太田垣士郎。彼の生涯を描いた小説『胆斗の人 太田垣士郎ー黒四(クロヨン)で龍になった男』 (北康利著)は、極限状況のなか、果敢にリスクをとり、次世代のために投資した経営トップの素顔に迫った作品である。(写真はYahoo画像から引用)

 

 太田垣は明治27年(1894)2月、兵庫県城崎郡城崎町湯島(現在の豊岡市)で生まれた。京都帝国大学を卒業後、銀行に入行したものの、大正14年(1925)に実業家の小林一三が率いる阪神急行電鉄に移った。その後、日本発送電が分割されたことによって関西電力が発足すると、太田垣は初代社長に就任した。昭和26年(1951)のことだった。

 

 戦後の電力不足は深刻だった。太田垣はこの難局を乗り切るため、大規模な水力発電所の建設に着手した。当時、最大規模とされた丸山水力発電所(岐阜)がそれだ。日本はその後も目覚ましい経済復興が続く。このままでは関西圏の電力供給が追い付かない-決断を迫られた太田垣は、世紀の難工事とされた黒部ダムの建設に踏み切ったのだった。当時の心境について、彼は次のような言葉を残している。

 

「経営者が十割の自信をもって取りかかる事業、そんなものは仕事のうちには入らない。七割成功の見通しがあったら勇断をもって実行する。それでなければ本当の事業はやれるもんじゃない。黒部は是非とも開発しなけりゃならん山だ」

 

 黒部川第四発電所(黒四)を訪れたことのある人は分かるだろうが、ダムの堂々たる威容は見る者を圧倒する。海抜1,500メートル、人跡未踏とされた大峡谷を目前にすると、死と隣り合わせの岩盤掘削と破砕帯に挑んだ先駆者たちの気概や気迫が伝わってくる。困難を極めた黒部ダム工事で171人の尊い生命が失われたことも決して忘れてはならない。

 

 小説『胆斗の人』では、太田垣の揮毫による「禹門」という書のエピソードが紹介されている。禹門とは、古代中国の夏王朝の禹王が築いた三段の水門を指す。いつしか「鯉が登り切れば天に昇って龍になる」という伝説が生まれたそうだ。「黒四魂(スピリット)」を引き継ぐ世代が、立ちはだかる困難を越えてほしいとの願いを込め、「禹門」という扁額を黒四発電所に掲げたとされる。

 

 7年の歳月をかけた黒部ダム工事は昭和38年(1963)に完成した。ダムの完成を見届けた太田垣は翌年3月、70年の激動人生を終えた。



 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。