明治新政府は金銀の比価を定めて品位・量目の安定した貨幣を製造するため、京都に分析所を創設し、ここで金銀精製と分析にかかわる作業を行った。当時、外国人技術者の助力なしに独自に実施したのが、化学者で貨幣製造技術者であった久世喜弘(治作)だ。(写真はYahoo画像から引用)

 

 久世は文政8年(1825)、美濃国安八郡中川村(岐阜県大垣市中川町)で生まれた。嘉永6年(1853)、ペリー率いる黒船来航に際し、大垣藩は浦賀に警備隊を派遣したが、久世もそのメンバーに加わった。このとき久世は28歳で「外国の威力に立ち向かうには学問しかない」と、舎密(せいみ)学=化学に目覚めたとされる。独力で研究に取り組んだ久世はその後、大垣藩執政だった小原鉄心の目にとまり、蘭学研究のため京都へ留学生として派遣されるなど、学問の幅を広げていった。

 

 久世が貨幣の成分分析とかかわるようになったのは、小原が越前藩の三岡八郎(由利公正)らと会計官判事に任命されたときだった。各種貨幣の成分分析が必要と判断した小原は、化学分析の実績もあり研究熱心だった久世を推挙した。

 

 久世は京都二条の金座に仮分析所を設置し、国内外の貨幣分析に取り組んだ。その結果、日本の貨幣が品位・量目がいずれも乱雑不統一であり、規格が統一された欧米各国の貨幣とは比べものにならないことを痛感させられた。

 

 明治2年(1869)3月4日、京都で貨幣改革にかかわる会議が開かれた。席上、参与会計掛の大隈重信(後の首相)と造幣判事の久世は連名で「新貨ノ形状及ヒ価名改正」案を提出。その骨子は、新貨幣の形状を円形に改めること、万国で通用する十進法を採用することなどであった。

 

 明治4年(1871)5月10日、新政府は新貨条例を布告し、近代的貨幣をつくり出すことを目的に大阪に造幣寮を建設することを決定。貨幣製造に当初からかかわってきた久世は、化学者として精製分析の責任者となり、外国人技術者からの自立も目指した。


 

 新政府は当時、造幣機械を海外から購入し、いわゆる「お雇い外国人技師」を多数雇い入れたが、久世は精錬工程を彼らの助力なしに独力でやってのけた。『小判・生糸・和鉄-続江戸時代技術史-』で、著者の奥村正二は「(久世が)どこでこの技術を身につけたかに強い関心がもたれる」と記している。

 

 日本経済の根幹をなす近代貨幣制度の確立に貢献した久世は、明治15年(1882)に58歳でこの世を去るまで、次の世代に知識や技術を惜しみなく伝授した。



 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。