前回に続き「芋代官」と称された井戸平左衛門正朋を取り上げる。薩摩の僧侶であった泰永との出会いをきっかけに、井戸は甘藷(サツマイモ)づくりを石見で奨励するようになった。(写真は旧大森代官所跡。Yahoo画像から引用) 

 

 薩摩には桜島の火山灰地でも育つ甘藷があり、味わいも甘美だ。当地では米や麦にかわる食物として貴賎老若を問わず、重宝がられている。泰永はこうした話を井戸に聞かせたという。

 

 井戸は早速、薩摩から芋種数百斤を取り寄せ、海浜の数カ所に百石につき8個ずつの種芋を与えた。最初は思うように根づかなかったものの、根気よく続けていくうちに、やがて石見の土地でもいたるところで甘藷が収穫されるようになっていった。

 

 甘藷栽培の成功によって、石見では一人の餓死者も出さないだけでなく、この情報を伝え聞いた出雲などが甘藷の栽培を採り入れるようになった。井戸がもたらした甘藷によって飢餓から救われた石見や出雲などの領民らは、いつしか彼を「芋代官」、「芋殿様」と呼ぶようになった。

 

 すでに触れたように、井戸は享保17年(1732)の大飢饉における独断専行の罪が軽くないと覚悟を決めていた。享保18年(1733)5月、井戸は大森代官職を解かれ、備中笹岡の陣屋で待命せよとの沙汰を受けた。

 

 「武士の身のひとたび死を決せしものを、おめおめと公儀の沙汰は待つべきではないと、かつ、かのことは手代どもに罪おわせず、われひとりにて引きかぶるべきと、子息の内蔵助へ一通の書き置きをしたため、笠岡の陣屋で腹十文字にかき切って相果てた」(小柳輝一著『日本人の食生活-飢餓と豊穣の変遷史』)。

 

 井戸の最期については、過労による病死説が有力で、自刃説は領民らが義人伝として広めたとの説もあるようだ。いずれにせよ、62歳でこの世を去った井戸は、大森代官に就いて僅か3年余りで飢饉から領民たちの命を救ったことに相違ない。

 

 井戸の死後、石見を中心に益田の高島まで頌徳碑(芋塚)が建立されたほか、明治時代に入ってからは井戸を祀る神社が建てられた。その額を書いたのが勝海舟だった。

 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿