米国で商業油田が始まったのは安政6年(1859)とされる。日本では明治維新(1868)の翌年に石油探査の機運が盛り上がった。その端緒を開いたのが、明治学院の創設者で、ヘボン式ローマ字の考案者で知られる医師で宣教師のジェームス・C・ヘボンだ。(写真はYahoo画像から引用)

 

 ヘボンは安政6年、妻のクララとともに初めて日本の土を踏んだ。日本ではヘボンという名前が一般的で、今日もなお、この呼び名が使われているが、正しくはジェームス・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn)である。幕末の日本人にはヘップバーンという発音がしにくかったようで、いつしか「ヘボン」になってしまった。

 

 安政5年(1858)、日米修好通商条約が締結された。幕府は翌年、神奈川、箱館、長崎を開港し、米英など5カ国に自由貿易を許可した。こうした時代背景のもと、教会はヘボンを宣教医として日本に派遣することを要請。ヘボン自身も喜んで引き受けたそうだ。

 

 来日したヘボン夫妻は神奈川の成仏寺に住み、その後、近くの宗興寺で診療所を開設した。当時、外国人に対する襲撃事件が相次いだこともあり、生麦事件(文久2年)の翌年、夫妻は横浜の居留地に移り、教会と診療所を新築した。文久3年(1863)には、横浜に男女共学のヘボン塾を開設。明治4年(1871)に開かれた女子部は、フェリス女学院の母体となった。

 

 多くの日本人と交流するなか、ヘボンは米国の石油産業について語り聞かせた。その際、日本でも石油探査を手がけてみたらどうかと提案したという。これに飛びついたのが岸田銀次(吟香)、中川嘉兵衛、久須美秀三郎だ。彼らは明治新政府に対して新潟での石油探査を願い出た。

 

 優れた探査技術がなかった当時の日本。ましてや石油開発にズブの素人であった岸田たちが、明治2年(1869)の段階で成果を出せなかったことは言うまでもない。

 

 ただ、新潟での石油開発にチャレンジした岸田らの目論見は、あながち的外れではなかったようだ。岸田らの石油探査から僅か3年余り後の明治5年(1872)、米国の地質学者であったベンジャミン・S・ライマンが新政府の招きで来日し、翌年から北海道で地質調査に乗り出した。日本の主要地域を調査した結果、ライマンは新潟の油田地帯に着目、国内におけるその後の油田開発に先鞭を付けた。

 

 ところで、岸田はその後、ジャーナリストとして活躍する。東京日日新聞社で岸田吟香の名で健筆を揮った。息子は画家の岸田劉生だ。中川は日本で初めて製氷業、横浜氷会社(後身は現在のニチレイ)を設立した。久須美は日本石油(現ENEOS)の創設にかかわったほか、越後鉄道会社を設立し、新潟の鉄道王として名を馳せた。ヘボンは日本最初の和英辞典「和英語林集成」の編纂・出版でも手腕を発揮した。

 

 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。