日本海軍は昭和16年(1941)12月8日(ハワイ時間12月7日)、ハワイ島真珠湾の米海軍太平洋艦隊に対して奇襲攻撃、これに合わせて米英に宣戦布告し、太平洋戦争に突入した。開戦までギリギリの判断が迫られるなか、最終決断はメキシコからもたらされた原油が決め手になったともいわれている。この原油を調達したのが、都留競という人物だった。(写真はYahoo画像から引用)

 

 都留は明治27年(1894)、大分県で生まれた。地元の師範学校を卒業後、海外移民の支援組織である「力行会」に入り、駐メキシコ公使の私設秘書として渡墨したという。農場経営など、当地でさまざまなビジネスを手掛け、最後は油田開発に行き着いたとされる。

 

 中島猪久生著『石油と日本  苦難と挫折の資源外交史』によると、都留は昭和7年(1932)、自ら取得した土地に石油が産出する可能性を確認すると、日本の実業家たちに提携を呼びかけた。これに飛びついたのが、王子製紙社長であり、藤原財閥を率いていた藤原銀次郎だ。藤原は国策会社を設立しようとしたが、政府の資金援助が得られなかったため、民間資本で太平洋石油株式会社(資本金1,000万円)を立ち上げ、都留の事業を支援した。

 

 ところが、石油開発では、20坑の試掘を行ったものの、出油したのはわずか1坑で、しかも少量だった。商業生産を断念するしかなかったが、都留は諦めなかった。ビジネス手法を当初の石油探査から買い付けに転じたのだ。

 

 日米開戦の前年、日本政府は水面下で石油調達に動いていた。陸軍の東条英機らは都留にメキシコ産原油の輸入を指示した。結果として計100万バレルの原油がメキシコから徳山第三海軍燃料廠に輸送されたという。『真珠湾攻撃を決断させた男』の著者、萩野正蔵はメキシコ産原油100万バレル分を積み増し、備蓄が計1,000万バレルになったことが、日米開戦を最終的に決断させる一因になったと指摘している。

 

 真珠湾攻撃の後、連合艦隊司令長官の山本五十六は、原油調達の謝礼として横山大観の「叭叭鳥」と竹内栖鳳の「富士山」の絵画二点を都留に贈呈したそうだ。

 

 メキシコからの原油輸送は、この時が最初で最後であった。米政府が墨政府に圧力をかけたためだ。真珠湾攻撃の後、山本はミッドウェー作戦などを指揮したが、昭和18年(1943)4月18日にブーゲンビル島上空で米軍に撃墜され戦死。都留はビジネス停止に追い込まれ、資産はすべて凍結された。

 

 

在原次郎

 グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。