ベストセラー『日本風景論』などの著作で知られ、明治・大正期に活躍した地理学者の志賀重昴。欧米列強による中東への進出ぶりに脅威を抱いた志賀は、やがて訪れるであろう日本の石油危機「油断国断」を予見し、警鐘を鳴らした。(写真はYahoo画像から引用)

 

 志賀は文久3年(1863)、三河国(現在の愛知県)岡崎藩の儒学者であった志賀重職の長男として生まれた。札幌農学校などで学んだ後、明治18年(1885)、海軍兵学校の練習艦「筑波」に便乗し対馬周辺を視察したのを皮切りに、翌年には豪州、ニュージーランド、ハワイ諸島などを10カ月かけて巡った。視察後に著した『南洋時事』は評判を呼び「一躍地理学と言論界の寵児となった」(中島猪久生著『石油と日本  苦難と挫折の資源外交史』。

 

 大正12年(1923)12月、志賀はインド、ペルシャ、アラビアなどを巡る世界旅行に出かけた。帰国後、バクダッドからダマスカスに至る砂漠を横断した記録『知られざる国々』で「日本の石油政策は必至となりて顧慮せざるを可らず」と、日本の中東進出を促した。

 

 志賀は日本の石油政策に対する懸念を中東訪問の前から抱いていたとされる。大正7年(1918)の著作『世界当代地理』で『将来の世界は唯だ石油戦(「油断大敵」否「油断国断」)のタイトルで、次のように論じている。

 

 日本が将来、世界列強に伍していくためには「石油の確保が重要になる」と前置きした上で、国内における含油層と油性頁岩の徹底調査、石油をいかに経済的に採取できるようにするかの研究(投資資金を出し渋ってはならない)、列強による国際会議に日本が参加するとともに、ボルネオやロシアなどと永久に石油供給を仰ぐ契約を疾く締結すべきと、主張した。

 

 その後、中東を実際に訪問したことで、世界のエネルギー情勢を自らの目で確かめた志賀は、日本の石油政策が欧米列強にいかに後れているかを痛感させられた。

 

 『南洋時事』は、後の南進論につながったとされ、志賀は国粋主義者として知られる。明治21年(1888)4月、志賀は同人らとともに政教社を組織し、機関誌「日本人」を創刊した。ただ、彼の思想は外国を排除するという単純な発想でなかった。日本の旧態を頑なに守り続けるのではなく、西欧文明を咀嚼し、消化してから採り入れるべきという柔軟さがあった。

 

 昭和2年(1927)、志賀は63歳でこの世を去る。彼が危惧したように、石油調達の道を閉ざされた日本はその後、日中戦争、太平洋戦争へと破局に向かって突き進んでいった。

 

 

在原次郎

 Global Commodity Watcher。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿