18世紀半ば、フランス東北部のアルザス地方でおよそ60年間にわたり、キリスト教の布教、教育活動に尽力した聖職者ジャン=フレデリック・オベリンは、ジャガイモの品種改良に取り組み、食糧難から村人たちを救ったことでも知られる。オベリンの教育思想は、後に桜美林学園を開学した清水安三に多大な影響を与えた。(写真は米国のオベリン・カレッジ、Yahoo画像から引用)

 

 アルザス地方は古くからフランスとドイツの係争地だった。オベリンはバン・ド・ラ・ロッシュ郡にある谷間の寒村で布教活動を開始したが、相次ぐ戦争による破壊によって痩せた土地が広がり、食料確保がままならぬ状態だった。

 

 オベリンはまず、土地の改良、作物の品種改良に取り組むことにした。スイスやポーランドから種芋を持ち込み、どの種芋が適しているかを試した。その結果、スイス産が適していることが分かり、オベリンは村の人たちに種を分け与えたという。ジョン・W・カーツ著『ジャン=フレデリック・オベリンーアルザスの土を耕し心を育んだ生涯』(柳原鐡太郎訳)によると、このジャガイモこそが今日の「シュタインタールの赤」であるそうだ。

 

 ところで、大正時代に中国・北京のスラム街で孤児らの教育に取り組んでいた日本人牧師がいた。清水安三である。彼は1926年(大正15年=昭和元年)から1年間、米オハイオ州のオベリン・カレッジの神学部に留学する機会に恵まれた。このカレッジは男女共学や黒人と白人の共学を初めて行った大学として知られ、大学名は前述の聖職者オベリンにちなんで名付けられた。

 

 留学後、いったんは北京のスラム街に戻った清水だったが、日本の敗戦(昭和20年)を機に帰国した後、東京郊外の町田に桜美林学園を開いた。校名は米オベリン・カレッジに由来するだけでなく、聖職者オベリンの教育思想を引き継ぐためだった。オベリンの当て字に「桜が美しい林」と付けた説もある。

 

 スラム街で奉仕活動する清水は、米国の大学に留学する資金など持ち合わせていなかった。彼に資金援助したのは、大原財閥を率いた大原孫三郎だ。中国に視察旅行に出かけた孫三郎を清水が北京で案内役を務めたのがきっかけだった。

 

 伊藤章治著『ジャガイモの世界史』によると、北京で土産屋に立ち寄った際、孫三郎は清水が翡翠の値段について店員に値切っている様子を目にしたという。「この一粒の金があったら」との清水のつぶやきに「その金を何に使うのか」と聞いた孫三郎。「米国留学します」と即答した清水に対し、孫三郎は資金提供を申し出たそうだ。

 

 聖職者オベリンの話からは脱線したが、これら人々のつながりは奇縁というほかない。

 

 

在原次郎

 ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。