明治時代の初め、米国の大学に留学し、鉱山学を修め、帰国後は三池炭鉱の開発で日本の近代化に貢献した團琢磨。その後、男爵・日本工業倶楽部理事長として日本財界もリードした。(写真は三池炭鉱の跡地、Yahoo画像から引用)

 

 團琢磨は安政5年(1858)、福岡藩士の家に生まれた。明治3年(1870)、福岡藩勘定奉行の團尚静の養嗣子となった。翌年11月、岩倉具視らの欧米視察団に金子堅太郎らとともに同行したことが、團のその後の人生を決定付けたといってもよいだろう。團は米国に在留し、マサチューセッツ工科大学(MIT)鉱山学科を卒業し、明治11年(1878)に帰国した。

 

 ハーバード大学で法律学を専攻した金子と團は留学時代、ボストンの同じ下宿屋で過ごした。金子に対し、團はMITで学ぶ動機について次のように説明したという。「日本は鉱物に恵まれている。米国で鉱山の学問を修め、帰国したら金銀や石炭を掘って地下に眠る財宝を世の中にあらわす仕事がしたい」。他方、金子は司法大臣、枢密顧問官などを歴任し、大日本帝国憲法の起草にも参加した。ちなみに、後に團の妻となる芳子は金子の妹である。

 

 日本では、政府が三池炭鉱を買収していたころだった。当時、柳河藩家老の小野隆基らが鉱区の運営に乗り出していたが、そこらかしこで「たぬき掘り」をやっていて紛争が絶えなかったため、いよいよ政府が介入し、総額約4万円で買い上げたのだった。たぬき掘りとは、機械を使用せず、人力で石炭を掘ることを指し、良質な石炭だけを掘って残余は放棄していたことから貴重な資源が無駄になるとされていた。

 

 團は明治17年(1884)、工部省鉱山局に入省し、官営となった三池炭鉱に赴任した。明治21年(1988)には、三池炭鉱が三井財閥に払い下げられた。これにともない、團は三井入りし、近代化に奔走することになる。英国製の最新排水ポンプを導入したほか、三池築港を次々と推進するなど、三井財閥を重化学工業を中心とする事業体に発展させていった。三池炭鉱は文字通り、三井のドル箱となった。

 

 明治42(1909年)、團は三井合名参事となり、大正3年(1914)に益田孝(三井物産・初代社長)の後任として理事長に就任し、三井コンツェルンの統率者として手腕を発揮する。團は三井の経営だけにとどまらず、財界団体の結成にも力を尽くす。日本工業倶楽部の初代理事長などの要職を務め、日本を代表する経済人として財界を牽引した。

 

 昭和7(1932)3月5日、突然の悲劇が團を襲った。東京日本橋の三井本館前で右翼テロ(血盟団事件)に遭難し、最期を遂げた。昭和初期の金融恐慌の際、三井が米ドルを買い占めたことで右翼らの反感を買ったとされた。

 

在原次郎

 ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。