近代国家に移行した明治以来、日本初となる大規模な食糧暴動が起きたのは大正期だった。富山県で発生した女房一揆は瞬く間に全国へと広がり、米騒動として歴史に刻まれた。当時、米の買い占め、売り惜しみの噂から暴徒による焼き討ちに遭ったのが大手商社の鈴木商店だ。今回は、鈴木商店を統率していた大番頭の金子直吉が、米作調査で全幅の信頼を置いていた松下豊吉を取り上げる。(写真は米騒動で焼き討ちに遭った鈴木商店・本店。Yahoo画像から引用)

 

 大正7年(1918)8月2日、寺内正毅首相がシベリア出兵を公式に宣言。その翌日、富山県下で米騒動のきっかけとなる事件が発生した。いわゆる「女房一揆」である。富山県中新川郡西水橋町(現富山市)の漁民の主婦200人余りが米価高騰に怒り、米穀商に米の安売りを懇願した。隣町(東水橋町)に飛び火し、米穀商を襲撃する事態となった。米騒動は同年9月半ばには全国的な広がりをみせ、暴動に加わった人たちは70万人を超えた。

 

 前述したように、暴徒化した理由は米価高騰だった。米価は当時、3年間に3~4倍に跳ね上がり、人々の暮らしを直撃。中堅サラリーマンの月給が30円程度で、4人家族で米代金が15円程度占めたとされる時代である。米を投機の対象とする商人らが大儲けをしたことに加え、地主の売り惜しみ、さらには政府がシベリア出兵を決めたことで兵糧として大量の米を買い付けたことに民衆の怒りが爆発した。

 

 神戸では大正7年8月12日、鈴木商店が暴徒らによる焼き討ちに遭った。鈴木商店は三井、三菱を凌ぐ日本一の総合商社で、経営を取り仕切っていたのが金子直吉だった。最盛時の社員数が3,000人を超え、米穀のほか、製鋼、金属精錬、樟脳、ゴム、造船、人絹、窒素肥料、染料、皮革、製粉、鉱山、海運、倉庫、保険など、業務内容は多岐にわたった。

 

 ところで、鈴木商店には米作調査で金子が全幅の信頼を置いていた調査マンがいた。松下豊吉である。松下は四六時中、米のことばかりを考えていたので、米粒を啄ばむ雀になぞられ「雀のおじさん」と呼ばれていたそうだ。実際、秋の収穫期になると、松下の米相場見通しは他の専門家より的中率が高かったとされる。

 

 松下の調査結果をもとに、金子は「米価の騰勢は米穀の供給不足によって本格化する」と予想した。供給不足は約330万石ないしは340万石に達すると判断。この予測がズバリ的中し、大儲けしたわけだが、これが仇となり、民衆の反感を呼び起こし、焼き討ちのターゲットになったともされている。

 

 鈴木商店は総合商社として不動の地位を築いたが、昭和2年(1927)4月、金融恐慌のあおりで経営が行き詰まり、歴史の表舞台から姿を消した。帝人、神戸製鋼、日商岩井(現在の双日)、IHI、昭和シェル石油など、現在の有力企業は鈴木商店の系列、後身である。

 

在原次郎

 ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。