江戸幕府の銅需要を支えた足尾銅山(栃木県都賀郡足尾町、現日光市)。採掘作業が盛んになるにつれて鉱毒被害が農民らの生活を脅かすようになる。鉱毒問題を見過ごせないと、明治期に市井の人々に寄り添った政治家がいた。田中正造である。(写真は田中正造。Yahoo画像から引用)

 

 足尾銅山は天文年間の末期に発見され、慶長15年(1610)に幕府直轄の鉱山となった。徳川家康は江戸城などの屋根を銅板ぶきにしたほか、日光東照宮の屋根も銅板ぶきにすることで、その権勢を誇示した。原料は足尾で産出された銅が利用された。

 

 足尾銅山はその後、明治政府や栃木県などの管轄を経て、明治10年(1877)に古河財閥当主の古河市兵衛に買い取られる。市兵衛は海外から新技術を導入し、産出量を飛躍的に伸ばしていった。

 

 採掘作業が進むなか、鉱山の坑内から出る硫酸銅を含んだ水が渡良瀬川に流れ込むなど、環境悪化の懸念が広がる。明治29年(1896)の大洪水では、流れ出した鉱毒で流域一帯の農産物や家畜に被害が拡大した。

 

 こうした状況下、栃木県選出の衆議院議員、田中が立ち上がった。帝国議会で鉱毒問題を追及、操業停止を要求した。ただ、全面的な解決には至らなかった。農民らの怒りは収まらず、明治33年(1900)には被害に遭った農民らと警察隊が衝突する事態に発展する(川俣事件)。

 

 この騒動で農民たちは予審で有罪が確定する一方、市兵衛は叙勲の栄誉に浴した。田中は日記に「内を見よ。人を殺すもの従五位となる。国土を守る忠義は獄にあり」と書き記した。事態打開を図るため、田中は意を決して行動を起こす。

 

 明治34年(1901)10月、田中は衆議院議員を辞職し、同年12月10日、天皇への直訴を試みた。直訴状を起草したのは万朝報記者の幸徳秋水(後に大逆事件で逮捕・処刑)だ。また、平民新聞記者として現地を取材した社会主義者の荒畑寒村は足尾鉱毒事件を「銅が人間を食った怪事」と表現し、鉱山経営者らをペンの力で糾弾した。結果的に直訴は果たせなかったが、田中の言動は多くの人々の共感を呼んだ。

 

 明治37年(1904)以降、栃木県の谷中村を拠点とし、農民らとともに闘い続けた田中は大正2年(1913)、この世を去る。「辛酸入佳境 楽亦在其中」-田中の言葉は、艱難辛苦のなかにありつつも、それを飄々と受け流す強靭な意志の表れであるかのようだ。

 

在原次郎

 ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。