横浜開港後、富岡製糸場などで生産された生糸は、東京経由で横浜に運ばれた。それ以前の生糸輸送や横浜の市況伝達は生糸商人と町飛脚の足が中心だったが、鉄道の出現によって状況が一変する。明治5年(1872)、新橋-横浜間で日本初となる鉄道が開通し、社会の近代化が加速していった。今回は「日本の鉄道の父」と称された井上勝を取り上げる。(写真は鉄道開業時の様子。Yahoo画像から引用)

 

 井上勝は天保14年(1843)、長州藩士だった井上勝行の3男として萩に生まれた。勝が20歳のとき、伊藤博文(後の総理大臣)ら5人で密航し、英国ロンドンに渡る。当地で鉱山学や土木工学を学び、明治元年(1868)に帰国した。

 

 明治4年(1871)、井上は工部省鉱山寮山頭兼鉄道寮鉄道頭に就任し、鉄道事業にかかわるようになる。翌年、鉄道頭専任となり、京阪神間鉄道の敷設工事を指揮した。

 

 明治10年(1877)には、大津-京都間、米原-敦賀間、東京-高崎間の鉄道建設費の調達で起業公債の裏付けを得ることに成功した。ところが、当時は大蔵卿・松方正義による緊縮財政政策のもと、官営による鉄道建設は困難な状況にあった。緊縮財政でデフレを招いた結果、着工命令まで漕ぎ付けた、東京-高崎間の鉄道建設は大幅に遅れた。

 

 その後、工部大輔、内閣鉄道局長官兼技官を歴任した後、内務省鉄道庁長官に昇進。井上は鉄道国有論を唱え、これが鉄道施設法制定に結実するなど、日本のインフラ整備に情熱を注いだ。

 

 ところで、岩手県の雫石と滝沢にまたがる場所に日本最大の民間総合牧場がある。小岩井牧場だ。明治24年(1891)、日本鉄道会社副社長の小野義眞、三菱社社長の岩崎彌之助、井上勝の3人が共同創始者であり、彼らの姓の頭文字をとり「小岩井」と名付けられた。鉄道事業とは何ら関係のない牧場経営だが、実は東北線を敷設するに際し、荒れた土地を農地につくり変えるための一環とされた。

 

 明治43年(1910)、欧州鉄道視察に出かけた井上は、若き日に鉄道建設を夢見た英国で客死した。終焉の地がロンドンだったとは彼の生き様を象徴しているようだ。

 

 「吾が生涯は鉄道を以って始まり、すでに鉄道を以って老いたり、まさに鉄道を以って死すべきのみ」- 文字通り、鉄道一筋の人生だった。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。