製糸業の隆盛にともない、明治期には製品の輸送手段である郵便や鉄道の発達が生糸産業の拡大に寄与した。今回は郵便制度の生みの親とされる前島密を取り上げる。前島は21世紀に入ったいまも1円切手印面の肖像として描かれている。(写真は日本郵政のHPから引用)

 

 前島は天保6年(1835)、越後(現在の新潟県上越市)の豪農の家に生まれた。幼名は房五郎。弘化4年(1847)、江戸に出て医学を修めた後、蘭学や英語も習得した。翌年には函館に渡り、航海術を学ぶなど、知識欲が旺盛な若者だったという。

 

 慶応元年(1865)、薩摩藩の洋学校で蘭学を教えた。その後、幕臣だった前島家の養子となり、家督を継いで前島来輔と名乗るようになった。明治に入り、新政府の招聘で民部省、大蔵省に出仕。名前を来輔から密(ひそか)に改名したのはこの頃だったとされる。

 

 明治3年(1870)5月、前島は駅逓権正となり、日本における郵便制度の創設にかかわるようになる。太政官に同制度の創設を建議するかたわら、海外の郵便制度を視察する目的などで渡英した。翌年に帰国し、駅逓頭に就いたのを皮切りに駅逓局長、駅逓総監に任じられるなど、近代郵便制度の基礎を築いた。

 

 前島はその後、明治14年(1881)の政変によって政府から離れ、大隈重信らとともに立憲改進党を創立し、政界に進出した。前島はこのほか、東京専門学校(現在の早稲田大学)の校長、関西鉄道会社の社長を務めるなど、教育、経済界と幅広く活躍した。

 

 明治21年(1888)11月、逓信次官として官界にカムバック。在任中は電話事業の創設の当たるなど手腕を発揮。退官後は北越鉄道の社長として直江津と新潟を結ぶ北陸鉄道の建設にも尽力した。漢字廃止論者としても知られている。

 

 ところで、郵便制度の発達が鉄道開設とともに日本の生糸産業を発展させたとの指摘がある。奥村正二は著書『小判・生糸・和鉄』で「前島密らによる郵便網の整備は、生糸情報の伝達の必要性から生まれたのではないか」との見解を示している。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。