横浜開港をきっかけとして日本の生糸は世界市場における花形産業へと成長していった。ところが、明治時代に入ると無秩序な生産などが影響して、その声価が失墜した。新政府は富岡製糸場(現群馬県富岡市)の建設プロジェクトで製糸革新に乗り出す。そこで手腕を発揮したのが尾高惇忠だった。尾高は渋沢栄一の従兄でもある。(写真は錦絵「上州富岡製糸場」。Yahoo画像から引用)

 

 横浜開港後、幕府の純輸出額に生糸が占める割合は万延元年(1860)上半期で48.88%、同年下半期は65.61%、文久元年(1861)は68.28%、文久2年は86% (石井孝著 『港都横浜の誕生』)と、増加傾向が続いた。

 

 当時、日本の生糸産業が世界市場で注目されるようになった背景には、中国で内乱が続いていたことがあった。太平天国の乱で清国の生糸輸出が大きく落ち込んだこと、フランスなど西欧における微粒子病の流行で繭生産が激減したことが、日本の製糸業に追い風となった。ところが、海外輸出業務の経験が乏しく、無秩序な生産が続いたことで明治期に入ると、国産生糸の声価が著しく低下したという。

 

 明治新政府は改革に乗り出す。明治4年(1871)3月、20億円の巨費を投じて官営富岡製糸場の建設に着手した。その舵取り役を任されたのが、大蔵民部省官吏、後の大実業家、渋沢栄一だった。初代所長には渋沢の従兄に当たる尾高惇忠が就任した。尾高の長女である勇(ゆう)は志願して富岡製糸場の最初の工女となった。

 

 渋沢や尾高らは外国技術の導入にとどまらず、それを指導する人材を海外から招くことが不可欠と判断した。また、立地場所などについて徹底的に調査することから着手した。

 

 まず、人材として仏リヨン出身の生糸商人で明治2年(1869)以来、横浜に滞在していたポール・ブリューナを採用。翌年、ブリューナは監督正だった松井清蔭らとともに武州、上州、信州などの主要な養蚕地の視察に出かけた。

 

 視察の目的は工場を設置する場所を選定するためだった。最終的に上州の富岡が選ばれたわけだが、優良な繭が豊富であること、動力源としての石炭や水、建材の石材が比較的入手しやすい場所であるといった点が評価されたという。

 

 富岡製糸場はその後、官営工場の払い下げで明治26年(1893)に三井家、明治35年(1902)に原合名会社を経て、昭和14年(1939)に片倉製糸紡績(後の片倉工業)に譲渡、昭和62年(1987)3月に操業停止となった。平成26年(2014)には、ユネスコの世界文化遺産に登録された。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。