横浜に進出した商人たちのなかには、生糸取引で莫大な利益を得るなど、多くの豪商たちを輩出した。今回はその代表的な人物である原善三郎と原三渓(富太郎)を取り上げる。善三郎は生糸商人にとどまらず、横浜で政財界の要職を務めた。一方、三渓は横浜を代表する実業家となり、豪華な庭園「三渓園」を完成させた。(写真は原善三郎。Yahoo画像から引用)

 

 原善三郎は文久2年(1862)、横浜に店舗(亀屋)を構え、生糸売込み業を営んだ。事業は急拡大し、1890年代には古河市兵衛や安田善次郎と匹敵する所得に達したという。生糸取引が主力の横浜取引所(後の横浜商品取引所)の初代理事長に就いたほか、初代横浜市議会議長、横浜銀行の前身である第二国立銀行の初代頭取、衆議院議員などを歴任するなど、横浜の顔と言うべき存在となった。

 

 善三郎の孫娘(屋寿)と結婚し、原家に入った後、生糸取引を中心に財をなし、横浜の本牧に豪華な庭園「三渓園」を完成させたのが原富太郎こと、原三渓である。5万1,000坪の広さを誇る庭園は善三郎が興したものだが、明治32年(1899)に善三郎が没した後、三渓が引き継いだ。

 

 庭内には京都や鎌倉などから移築された旧天瑞寺寿塔覆堂、臨春閣、天授院など、重要文化財に指定される古建築がある。詩聖といわれたインドのラビンドラナート・タゴールが大正5年(1916)に初来日した際、3カ月近くにわたり三渓園に逗留した。タゴールは日本人の美意識を高く評価した。

 

 三渓は芸術家のパトロンとしても知られ、画家の横山大観、菱田春草、小林古径らを支援した。次の世代に属する速水御舟、小茂田青樹らも三渓園グループの一員として名を連ねた。三渓が画家たちのパトロンになったのは岡倉天心の要請に応えたものだったという。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。