安政6年(1859)7月1日、横浜が開港した。明治初期の工業輸出品の主力は生糸で、開港によって横浜に生糸を供給した桐生、前橋、富岡、諏訪、岡谷など、各都市との結びつきが強くなった。開港に至る過程で大きな役割を演じたのが幕臣、外交官の岩瀬忠震であった。(画像はYahooから引用)

 

 岩瀬はまず、大坂と江戸の経済的な地位の比較から調査に入ったという。天下の台所と呼ばれた大坂は商業の中心地として、すでに確固たる地位を築いていたのに対し、江戸は人為的に形成された都市に過ぎなかった。

 

 大坂を開港すれば、商業的な利権が大坂に集中し、さらなる経済発展があると見込まれた。これに対し、岩瀬は輸出品は江戸を経て輸送し、輸入品も江戸を通じて配給することで、商業の中心が大坂から江戸に移転すると考えた。

 

 幕末に対外問題の処理と海岸防御などを担当した海外防禦御用掛(海防掛)の役職にあった岩瀬は、外交官として開港問題にかかわった。権力の座にあった大老、井伊直弼は外国との交渉を制限しようと企て、東海道から離れた地に外国人を閉じ込めるとの発想から神奈川でなく、横浜開港を主張したのだ。

 

 当時、横浜は辺鄙な漁村にすぎなかったため、外国勢は当然のことながら横浜でなく、神奈川の開港を求めた。米国公使のタウンゼント・ハリスと外国奉行との間で行なわれた交渉では、双方の主張がかみ合わず、話し合いは平行線を辿るばかりであった。

 

 開港の期日までに幕府は商人たちを横浜に移住させるなど準備を着々と進め、ついにはハリスや英国総領事(後に公使)のラザフォード・オールコックらの反対意見を押し切り、横浜開港に漕ぎ付けた。

 

 積極的な動機で横浜での出店を考えていた人たちは少数派だったという。ジャーナリストの福地源一郎(桜痴)は、著書『懐往事談』で「(商人たちの)内心は真平御免」と記述している。

 

 幕府は横浜への出店を奨励したが、それは強制、脅迫に近いもので、日本一の富豪だった三井家は第一の標的とされたようだ。横浜は政治権力によって創り出された港湾都市で、神奈川奉行の完全な支配下に置かれた。

 

 岩瀬は晩年、安政の大獄で左遷され、蟄居を命じられた。文久元年(1861)、失意のうちに44歳で病死。当初、蓮華寺(東京・文京区)に葬られたが、後に雑司ヶ谷霊園(東京・豊島区)に改葬された。

 

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。