愛知県豊橋の製糸業の始まりは繭の産地である群馬県と深い関係があった。「玉糸製糸」(2頭でつくった繭から引いた糸)で愛知県を日本一の地位にした功労者が上州出身の小渕志ちだ。彼女は使い物にならなかった屑繭から生糸を紡ぎ出す方法を考案しただけにとどまらず、豊橋に糸徳製糸工場を稼動させた明治・大正の女性起業家でもあった。(写真はYahoo画像から転載)

 

 放蕩三昧であった夫の齋藤米吉との生活に耐えられなかった志ちは32歳の時、糸繭商人の中島伊勢松(後に徳次郎と名乗る)と上州から伊勢参りを口実に故郷を後にした。

 

 旅の道中、2人は愛知県二川町(現豊橋市)に立ち寄る。地元の町人たちと交流するなか、製糸業を生業にしていることが分かると、町人らは製糸技術の伝授を要請した。2人はこれを快く受け入れた。一時的な滞在だったはずが、居つくことになり、最終的に製糸工場を設立することになった。

 

 明治17年(1884)、二川地方にコレラが大流行した。その影響で役所は戸籍を持たない無籍者を厳しく取り締まるようになる。志ちと徳次郎は大岩寺の住職に頼んで偽の戸籍を作ってもらったものの、このことが発覚し、徳次郎は逮捕され、岡崎の監獄に収容されてしまう。

 

 接見した志ちに対し、徳次郎は原料の繭不足を懸念し、安い玉繭から糸を引けないかを提案したという。玉繭とは2頭以上の蚕がいっしょにつくったもので、繭で引いた糸は玉糸と呼ばれた。値段が安く節糸織りなどに用いられた。ただ、玉繭から糸を引くのは至難の業で、それまで誰も成功した人はいなかった。志ちは座繰器を改良したり、繭の煮方を変えたりするなど、粘り強く工夫を重ね、ついに成功した。

 

 徳次郎はその後、刑務所内で亡くなった。彼の志を引き継ぐため、志ちは工場名を徳次郎の徳の一字を入れて「糸徳製糸工場」と付けた。明治25年(1892)、志ちは玉糸製糸業から玉糸専業に転換し、事業を伸ばしていった。

 

 豊橋の製糸業はその後、拡大の一途を辿る。「製糸では日本の8割を占めるほどになった。最盛期には糸を採る工女は1万7,000人を数えた」(佐滝剛弘著『日本のシルクロード』)という。

 

 糸徳財団のホームベージによると、名古屋離宮で天皇陛下の拝謁を受けた初めての女性が志ちである。大演習関係者を労う宴会で、トヨタ自動車の創始者である豊田佐吉の隣に志ちが座る記念写真が残っている。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。