江戸時代、米取引の活況で経済発展が著しかった大坂は「天下の台所」、「諸色相場の元方」などと呼ばれていた。当時、蔵米などの売買業務を手始めに商いを広げ、栄華を誇ったのが、初代の岡本三郎右衛門常安、二代言當ら五代にわたって続く淀屋だった。(写真はYahoo画像から転載)

 

 諸大名は大坂に蔵屋敷を置き、そこに米などを貯蔵した。これを管理していた蔵元は当初、諸藩の武士が任命されていたが、後に商人たちが業務を担うようになる。これら商人たちは「掛屋」と呼ばれ、各藩の蔵物売却代金を預かり、蔵物を担保として資金を融通するようにもなった。

 

 当時、もっとも有力だった掛屋が京橋の淀屋だった。初代常安は伏見城の工事や淀堤の普請のような土木工事を手掛け、飛躍を遂げる。大坂の陣で陣屋を提供するなどの功によって、徳川家康から認められた常安は、名字帯刀のほか、岡本三郎右衛門と名乗ることを許された。

 

 さらに「米穀の相場をたててみたいと願い出た」(『豪商列伝』宮本又次著)。常安の願いが叶い、米相場の市場づくりが本格化していくことになる。淀屋の米市は全国の米取引にも影響を及ぼし、後に米相場会所につながっていく。

 

 二代目の言當は、天満の青物市を復活させたほか、魚の干物を扱う雑喉場市と堂島米市を設立し、大坂三大卸市場を取り仕切ることになった。加賀藩が回送してきた米一万石を一手に売りさばいたのが言當だった。

 

 ところで、淀屋の繁栄ぶりが町民らの羨望や嫉妬の対象となったのも事実だ。五代目の廣當が22歳のとき、幕府の命令で闕所(財産没収)処分を受けた。これは、廣當の通称である淀屋辰五郎の闕所処分として広く知られている。

 

 取り潰しは「豪奢僭上の沙汰」で、表向きには町人の分限を超え、贅沢三昧が目に余るというものだった。ところが、実際は諸大名に対する莫大な金額の貸付けから反感を買ったのが真相とされる。

 

(㊟ 闕所の時期や対象者などについても諸説あり、専門家の間で意見が分かれている)

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。