かつて「日本のビール王」と呼ばれた人物がいる。三井物産出身の馬越恭平だ。横浜支店長や初代棉花部長として辣腕をふるった人物である。馬越が48歳の時、三井物産初代社長の益田孝から恵比寿ビールをつくっていた「日本麦酒醸造」の再建を託される。しかし、馬越はこれを左遷と受け止めたようだ。(写真はYahoo画像から引用)

 

 「商売のことならだれにも負けない、という自負心はあるが、相手は麦酒というキテレツな毛唐の飲料だ。なんともはや、まずくて吐きだしたいような代物であった」(小島直記著『小説三井物産』)。視察した目黒の工場は化け物屋敷の如く荒廃していた。 

 馬越は悩むが、 三井物産内では若手が台頭。本店重役がうわさされた上海支店長の上田安三郎は37歳、三池炭鉱を取り仕切っていた團琢磨は34歳。次第に取り残されて行く気持ちを強くしていた。

 

 一方、再建は自分にしかできないとの思いもあった。結局、馬越は「おたがい、いつまでも三井の使用人じゃつまりませんよ」(同著)と、益田孝に告げて引き受けを決断。明治25年(1892)に日本麦酒の社長に就任した。4年後の明治39年には日本麦酒とアサヒビールの前身である大阪麦酒、サッポロビールの前身である札幌麦酒の3社合併を実現させ「大日本麦酒」を誕生させた。

 

 馬越は41年間社長職にあり、日本のビール生産量の7割強を占める巨大会社に発展させたほか、スエズ運河以東で最大のビール会社へと成長させたことから「日本のビール王」、「東洋のビール王」などと呼ばれた。また、銀座に日本初のビヤホールを設立するなど、国内でのビール普及に大きく貢献した。

 

 ちなみに、キリンビールの前身会社に出資し、重役も務めた渋沢栄一は、札幌麦酒では会長を努めた。3社合併後の大日本麦酒の取締役にも就任し、経営面で馬越を支えた。大日本麦酒は昭和24年(1949)に過度経済力集中排除法により日本麦酒(現サッポロビール)と朝日麦酒(現アサヒビール)に分割されることになる。

 

 東京・恵比寿のサッポロホールディングス本社隣りにあるエビスビール記念館の入り口には、その功績をたたえるかのように巨大な馬越恭平の銅像が設置されている。


 

沢田楊:ジャーナリスト