日本で初めて白金(プラチナ)の溶解に成功したのが村松万三郎だ。明治時代の半ば、東京・本所でスタートした貴金属装飾品の製造工場は、20年後に従業員300人の規模まで膨らんだ。村松は宝飾品業界の先駆者にとどまらず、世界の真珠王、御木本幸吉らにも大きな影響を与えた。(写真はYahoo画像から転載)

 

 村松は嘉永3年(1850)生まれで、幼名は太田万三郎。12歳のときに士族だった村松長次郎の養子となった。幕末の江戸で彫金師として知られていた宝真斎寿景のもとで23歳まで修業。その後、独立して宝龍寿春と号し、白金の溶解に取り組むようになったという。試行錯誤を繰り返した後、村松は明治24年(1891)、日本で初めて白金溶解に成功した。当時、明治政府の富国強兵策で溶解した白金は軍需用として利用されたそうだ。

 

 時代の変遷とともに、刀剣の付属品などの需要が減退したこともあり、村松は指輪や時計鎖などを扱う金銀細工師に転身を図る。明治21年(1899)に東京の本所で5つの工場を立ち上げ、貴金属装飾品の量産化に取り組んだ。この工場で製作された製品にはシンボルマークである犬印の刻印がされた。

 

 村松の功績は、宝飾品業界の先駆者にとどまらず、多くの人材を育成したことでも評価された。服部セイコー(現セイコーホールディングス)の創業者である服部金太郎は村松の薫陶を受けた一人だ。世界の真珠王、御木本幸吉や、シチズン時計の創業者である山崎亀吉も村松とゆかりのある人たちだ。真円真珠の養殖に成功した御木本は明治40年(1907)、東京の築地に工場を設立したが、村松はそこに技術者を派遣して貴金属の加工技術を指導したという。

 

 村松は東京の下町、三河島の清国山浄正寺に眠る。本堂近くには村松の功績を称えた石碑が建立されており、総理大臣だった桂太郎による顕彰文が彫られている。

 

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。