江戸時代、海苔の養殖は先行投資に多額の費用がかかり、採算面で大きなリスクをともなう相場商品で“運草”と呼ばれるほどだった。人工養殖の研究は時代とともに進み、後の人工採苗法につながる過程で基礎を確立したのが英国の藻類学者、キャスリーン・メアリー・ドゥルー・ベーカー女史だ。彼女は日本の海苔養殖発展の最大の功労者でもあった。(写真はYahoo画像から転載)

 

 英国マンチェスター大学の藻類学者ドゥルー女史は昭和22年(1947)、海岸で海苔に覆われているかき殻を見つけた。殻の中に黒紫色の斑点があるのに気付く。これが糸状の植物であることを確かめた。「果胞子は海中に放出され、貝殻に付着すると直ちに発芽し、貝殻内に穿孔して糸状となり、夏期を過ごすことを確認した」(長崎福三著『魚食の民』)。

 

 この観察が専門誌に発表されたのが昭和24年(1949)だった。九州大学の瀬川宗吉教授は当時、ドゥルー女史と親交があり、研究成果を手紙で知らされる。瀬川氏はこれを熊本県水産試験場の技師だった太田扶桑男氏に伝えた。太田氏は早速、人工採苗法の研究に取り組む。その結果、昭和28年(1953)に人工採苗に初めて成功。昭和32年(1957)には養殖期間の拡大、密殖の防止のほか、海域でも自由に養殖が可能となった。翌年以降、全国各地でこの方法が採用され、海苔の生産量が飛躍的に増加することにつながった。

 

 有明海に面する熊本県宇土市住吉山。ここにある公園の中腹に記念碑が建立されている。昭和32年に56歳の若さで死去したドゥルー女史の研究業績を称えるものだ。昭和38年(1963)4月14日の除幕式には夫のライト・ベーカー氏も参加した。彼は当初、日本政府の招きであるなら辞退すると申し出たが、漁民が全国の海苔関係者から募金して、建立したものだと知らされると、彼らの熱意に感動し、出席を受け入れたという。

 

 江戸時代から行われていた日本の海苔養殖産業は、人工採苗法が確立するまで自然任せの産物で、採取量が安定しなかった。宇土市のホームページによると、「海苔1枚、米1升」と言われるほど、海苔は高価な代物だったそうだ。

 

 海苔の生産者らはドゥルー女史を「海苔漁民の救世主」と称え、毎年4月14日を「ドゥルー祭」と名付け、顕彰している。こうした関係者らの尽力により、女史の業績は人工養殖の生みの親・日本の海苔養殖発展の最大の功労者として後世に語り継がれている。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。