明治時代に千島列島の重要性を見抜き、漁業開発の必要性を唱えた海軍大尉がいた。郡司成忠だ。日露漁業条約締結への道筋を付けたことでその後、多くの企業家がカムチャッカでのサケ漁業に投資するきっかけにもつながった。郡司は文豪幸田露伴の実兄としても知られる。(写真はYahoo画像から転載)

 

 南千島での漁業開発は寛政11年(1798)に遡る。摂津の商人、高田屋嘉兵衛が択捉島に渡り、漁場を開設したことが嚆矢とされる。明治8年(1875)には日露間で樺太・千島交換条約が締結され、千島列島は正式に日本の領土となった。しかし、択捉、国後の2島以外は無人島であり、開発の対象からは外れていた。

 

 千島列島の重要性や漁業開発の必要性を唱えたのが、郡司成忠が率いる青年団「報効義会」だ。千島を目指すため、郡司は明治25年(1892)、千島移住に関する趣意書を海軍当局に提出したが、却下された。そこで海軍大尉というポストを退き、予備役となり、あくまでも民間人として千島行きを目指すようになる。明治26年(1893)3月20日、郡司ら一行約80人は東京港から千島行きを敢行した。第一次拓殖団の中には、後に南極探検で指導力を発揮した白瀬矗中尉も含まれていた。

 

 第二次拓殖は日露戦争の開戦の明治37年(1904)に実施された。郡司らは苦難の末、北千島を経てカムチャッカ半島に上陸。ロシア軍と戦闘となり、郡司は捕えられ、監禁されてしまう。翌年、日露間でポーツマス条約が締結されるが、ここで郡司のアドバイスが奏功する。カムチャッカに来たフランス人毛皮商に、ポーツマスで交渉に当たる日本全権の小村寿太郎に手紙を託したのだ。その手紙は小村まで届き「ロシアは日本海、オホーツク海及びベーリング海に接するロシア国領地の沿岸における漁業権を日本国民に許与せんがため、日本国と協定すべきこと」との条項を入れることに結実したという。

 

 明治40年(1907)、日露漁業条約が締結される。これによって多くの企業家がサケ漁業に投資するようになる。北陸、津軽の北前船の船主や回船問屋も含まれていた。また、明治末期にはベニザケ缶詰製造も行われ、北洋漁業は外貨獲得にも貢献するのであった。

 

 大正6年(1917)に起きたロシア革命の影響は極東方面まで拡大。尼港事件で副領事以下約100人の日本人が虐殺されるなど日露関係の悪化に伴い、ロシア領内での漁業権益も怪しいものになりつつあった。

 

 大正から昭和に時代が進むにつれ、世界的な経済恐慌で北洋漁業も規模縮小の一途を辿る。軍靴の響きとともに、昭和10年(1935)に期限を迎える日露間の漁業条約を改定するような政治情勢になく、日本の漁業はその後、ソ連の領海に影響を受けない沖獲り漁業を本格化させていった。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。