徳川家康が江戸入府した天正18年(1590)、江戸湾ではすでに芝浦、品川などで小規模ながら漁村部落が形成されていたという。家康は入府と同時に、摂州佃村から漁師たちを招き、江戸湾奥部で漁業を行わせた。シラウオ(白魚)を中心した鮮魚を将軍家に献上させるなど漁業活動が盛んになり、佃島漁師の起源になったとされる。(写真はシラウオ、Yahoo画像から転載)

 

 シラウオはサケ目シラウオ科の海水魚。春に川に上り産卵する。全長10センチほどで半透明、死後は白色不透明に変色する。シロウオ(素魚)とは別種である。シラウオの頭の部分を上から観察すると脳髄が透けて見え、その形が将軍家の三つ葉葵の紋章に似ていることから「殿様魚」と呼ばれることもあるそうだ。

 

 長崎福三著『魚食の民』によると、摂州佃村から江戸に出てきた漁師一団は、安藤対馬守の邸内に住まわされ、漁業活動に従事させられるなど、幕府お抱えの漁師であった。ここに佃島漁師が誕生することになり、天保8年(1644)には隅田川河口の洲であった三国島を埋め立てて佃島とした。

 

 佃島の漁師に加え、白魚組と呼ばれた漁師集団にも漁業権を与えられ、シラウオを中心とした漁に出ることになる。関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)に家康は上総の国に鷹狩りに出かけた。その際、地元の漁師が浅草川で獲れたシラウオを献上し、これを食した家康がたいそう喜んだのを契機として、佃島の漁師と白魚組はこの魚を「御菜魚」として献上することを命じられる。

 

 シラウオの漁期間は年初から春先までで、獲れたシラウオは速やかに献納された。「20尾を並べた小箱25箱、つまり500尾を黒のうるし塗りの献上箱に収める。この箱にも『御本丸』、『御膳御用』と白うるしで書かれてあり、この箱をかついで、早朝、数人の行列を組んで江戸城に向う。生ものであるから、途中通行構いなしで、大名の行列にも優先したという」(『魚食の民』)

 

 佃島の漁師や白魚組は、漁業権のほか、水害などの際に再建のための援助金を受け取るなど、納税面でも優遇された。また、御菜魚として献上した以外の魚については自由に販売することができた。

 

 佃島漁師と白魚組との漁場の棲み分けも区分されており、双方が揉めることはなかった。しかし、江戸の人口が増加するに従い、その需要を満たすため、近郊の漁師たちの漁業活動が活発となり、次第に漁場を巡るトラブルが頻発するようになっていったという。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。