安政6年(1859)、開港した横浜は外国貿易の発展や欧米の文明導入を促し、日本を近代国家に育て上げる拠点となった。とりわけ、生糸産業の興隆は明治新政府のドル箱ともいえる一大産業に発展した。また、生糸を通じて産地の上州や信州などと横浜を結ぶ「日本のシルクロード」が発達する契機にもなった。生糸産業が発展するインフラ整備に貢献したのが高島嘉右衛門だった。(写真はYahoo画像から引用)

 

 開港当時、横浜は数百戸程度の小さな漁村であり、東海道五十三次の一つ、神奈川宿から至近距離にあったものの、陸路では時間がかかるような辺鄙なところに位置していた。両地は地続きであるが、その間に湾が跨り、遮断されていたのだ。後に商取引が許されるようになると、外国人の居留地となり、三井家などの富商も集った。しかし、開港当初は「第二の出島」という感が強く、一般の町民が行き来できるような状況ではなかった。 

 

 商人たちの商売が軌道に乗り始めると、内外商人の横浜移住が増えるようになる。そのため、横浜付近の浅瀬は逐次埋め立てられるようになった。神奈川宿にいたる間の浅瀬も埋め立てられ、そこに横浜駅が敷設された。現在のJR桜木町駅である。明治5年(1872)には新橋―横浜間に鉄道が開通する。こうした工事は幕末から明治8年(1875)くらいまで続けられ、横浜は次第に市街地となっていった。 

 

 埋め立て工事で陣頭指揮を執ったのが高島嘉右衛門だ。埋め立て地の一部を鉄道の敷地のために政府に寄附するなど、横浜の町づくりに貢献した。高島は、貿易港として横浜が栄えるためには鉄道敷設が必須と考え、大蔵大輔の大隈重信、大蔵少輔の伊藤博文に献策。この一帯の埋め立て地は「高島町」と名付けられ、現在も横浜の中心地である。

 

 高島の業績はこれだけに止まらない。横浜瓦斯会社の創設、東京市街鉄道会社社長など大役をこなした。趣味とした占易は現代でも「高島易断」として知られている。その開祖が高島だったのだ。高島らの尽力で、横浜は都市としてのインフラを整備していくことになった。 

 

 横浜港をベースにやがて生糸貿易が開花し、原善三郎ら豪商が生まれるとともに、小さな寒村だった横浜が時代とともに日本の玄関口として大きな繁栄を迎えるのは周知の通りである。 


 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。