安政5年(1856)、米国の駐日総領事(後に公使)として来日したタウンゼント・ハリスは大の牛乳好きで知られた。来日当時、日本では牛乳を飲む慣習はなく、ハリスはなかなか牛乳にありつけなかった。何としても牛乳を飲みたいという思いからか、牛乳に代わる「山羊乳」の有用性まで提唱したほどだった。(写真はYahoo画像から転載)

 

 ハリスは伊豆・下田の玉泉寺に住み、日米修好通商条約の締結(1858年)に尽力した。この寺には「牛乳の碑」が建立されている。牛乳好きだったハリスは来日2カ月目に、通訳を介して下田奉行に牛乳を飲用に回してもらうよう要請している。ところが、当時の日本では牛乳は子牛が飲むもので、人間が飲用するものでないとの考え方が強かったほか、牛が農耕や運送に利用する大切な「財産」であったため、人々は牛を手放さず、入手することすら困難な状況であった。ハリスは自ら牛の乳を搾ると願い出るほどだったそうだ。

 

 侍女としてハリスに仕えたお吉は、ハリスが体調不良の際、下田の農家から牛乳を手に入れ、これを竹筒で運んで飲ませたそうだ。記録によると、当時の牛乳価格は高価で8合8分で1両3分88文。米俵3俵分の値段に相当したという。

 

 牛乳が自由に飲めないのなら、とハリスは思い立つ。牛乳の代用品として山羊の乳を求めたのだ。『日本滞在記』では、次のようなやりとりが記されている。「牛がダメなら山羊はどうか」と質したが、これも叶わぬと分かり、今度は「香港から山羊を取り寄せ、野山に放し飼いしたいがどうか」といった具合だ。

 

 さらに、ハリスは日記で、火山性の高地が多い日本では山羊の飼育が適している。こうした高地は山羊のための牧草地になる。山羊の乳は栄養に富み、チーズの原料にもなる。日本人が獣肉を食さないとしても山羊を飼う一つの目的になると強調している。

 

 牛乳や山羊乳にこだわったハリス。病気を理由に辞任の意向を示し、1862年4月に5年9カ月の滞在を終えて離日する。帰国後、公職に就くこともなく、動物愛護団体の会員になるなどして余生をフロリダ州で過ごしたという。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。