明治から昭和にかけての実業家で男爵だった川田龍吉。船舶会社の経営で手腕を発揮したほか、北海道で馬鈴薯の生産・普及に尽力した。この馬鈴薯は後に「男爵イモ」の名で知られるようになるが、このイモの普及の陰に英国留学時代に出逢ったジニー・イーディーとの悲恋があった。(写真はyahoo画像から転載)

 

 龍吉は1856年、土佐郡杓田町で生まれた。父親は後に日本銀行総裁を務める川田小一郎である。龍吉は慶応義塾を経て1877年から7年間、英国に留学し、クラスゴー大学で船舶機械技術を学んだ。留学時代、龍吉は青春を謳歌した。敬虔なクリスチャンの英国人女性ジニーとの出逢いは運命的だった。彼女の存在は終生、龍吉の胸の内から離れることができなくなる。

 

 恋人同士となった龍吉とジニーはデートで馬鈴薯畑を眺めたり、グラスゴーの街角で熱い馬鈴薯を食べたりすることで、二人だけの時間を過ごしたという。逢瀬を重ねた二人はいつしか結婚を約束したのだった。ところが、龍吉の父、小一郎の大反対で婚約は成立せず、龍吉は後ろ髪引かれる思いで英国を後にした。

 

 帰国後、龍吉は三菱製鉄所、日本郵船を経て1897年に横浜船渠(ドック)会社の取締役になり、4年後に社長に就任。日本初の石造りドックを完成させている。また、経営危機にあった函館船渠会社の再建に乗り出すため、北海道に渡る。父親の死後、爵位を継いで男爵となった。

 

 『ジャガイモの世界史』で著者の伊藤章治氏は「栄達を極めた龍吉だったが、心の空洞を抱え続けたのでは、とも思われる」と指摘。その空洞を埋めるためか、函館郊外で欧米からアイリッシュ・コブラーという品種の馬鈴薯を取り入れ、自営の農場に導入し、普及を図る。この品種が後に「男爵イモ」の名で知られるようになる。伊藤氏は「このとき龍吉の脳裏に、ジニーと二人で見たスコットランドのジャガイモ畑の光景や、冬の夜、肩寄せ合ってほおばった焼きジャガイモの味がよみがえったのではあるまいか」と記述している。

 

 男爵資料館(北海道北斗市)のホームページによると、龍吉の死後に発見された遺品のなかに「(ジニーの)金髪と90通にも及ぶラブレターが見つかった」そうだ。これら恋文には、Xマークがたくさん記されていた。これは英国でキスマークを意味し、Xの数は次第に増え、最大156個付いていたという。いかに二人が愛し合っていたか、そして手紙を大切に保管した龍吉のジェニーに対する思慕の情が伝わってくるエピソードである。男爵イモはその後、全国各地に広がっていった。その陰には、もの悲しい明治のロマンが秘められていた。

 

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。