近代資本主義経済の父と呼ばれた渋沢栄一(写真)。『渋沢栄一伝記資料』(渋沢青淵記念財団竜門社編)第14巻では、渋沢が東京米会所や大阪堂島米会所で解け合いの斡旋に乗り出したり、大蔵省への陳情に奔走するなど、その奮闘ぶりが紹介されている。その一部を抜粋してみた。(画像はyahoo画像から転載)

 

 

●東京米会所

 明治9年(1876)年4月29日

 「是ヨリ先、糸平・島慶ノ両人、中外商行社ニ於テ取組ミ、譲ラズ。栄一ソノ解合ヲ斡旋シツツアリシガ、是夜、共ニ柳橋升田屋ニ会シ和睦ナル」

 

 明治12年(1879)12月5日

 「是ヨリ先本年二月四日、米商会所仲買人ニ制限ニ関スル大蔵省布達甲第十六号発令セラレ、ソノ実施方延期中ナリシガ、コノ頃遂ニ実施ヲ見ントス。東京蛎殻町米商会所困惑シテ米倉一平ヲシテ大蔵省常平局長与倉守人ニ更ニ延期ヲ懇請セシメテモ成ラズ。栄一与倉ニ面会シテ重ネテ内情ヲ陳述セントス。仍テ是日与倉、栄一ニ書ヲ致シテ延期実現ノ困難ナルヲ示ス」

 

 明治19年(1886)7月17日

 「当時米商社会ノ腐敗甚シク、之ガ改革ノ声、朝野ニ満ツ。農商務次官吉田清成マタ夙ニ粛清ヲ志シ、是月東京ニ催サレタル全国米商会所協同会ニ改革方ヲ諮問ス。ソノ復申書ノ上程サルゝヤ、コレヲ栄一ニ示シテソノ意ヲ問フ。乃チ栄一是日、書ヲ寄セテ之ヲ批判シ、株式組織ニヨル米商会所ノ不適当ナルヲ論ズ」

 

 

●大阪堂島米商会所

 明治11年(1878)6月

 「栄一、大阪堂島米商会所ノ依頼ニヨリ、無記名公債証書ヲ以テ証拠金ニ代用スルコトヲ大蔵卿大隈重信ニ出願スルニツキ斡旋ス」

 

 明治13年(1880)2月~3月

 「紙幣ノ濫発ニ伴ヒ米価ノ騰勢甚シキヨリ、五代友厚等政府ノ意ヲ受ケ大阪堂島米商会所ニ於テ定期米ノ売却ヲ試ミシモ失敗ニ終リシコトアリ。栄一モ之ニ関与セルカ」

 

 渋沢はこのほか、東京商品取引所の設立に際して主導権争いで対立していた派閥の間に立ち、協調関係を築かせた上でこれを開業させた。また、日清戦争後の不況で存続の危機に晒された横浜の商品取引所合併問題で、その解決にも手腕を如何なく発揮した。先物市場の育成にも力を注いだ渋沢に対し、文豪・幸田露伴が絶賛しているのも興味深い。

 

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。