江戸時代、米価が安くなり他の物価が高騰するという局面に見舞われた。8代将軍・徳川吉宗(画像)の命令により江戸南町奉行・大岡越前守が大坂の堂島米会所での帳合米取引を公認したことで、全国の米価平準化に効果を上げたのであった。(画像はyahooから引用)

 

 江戸時代は米作が基幹産業だった。元禄時代の終わり頃から米価が上昇せずに、他の物価全般が上昇するという傾向が現れ始めた。いわゆる「米価安の諸色高」だ。この背景には、庶民生活の奢侈化のほか、労賃の上昇などがあったと考えられている。

 

 米価安の諸色高が顕著となったのが、享保年間に入ってからである。享保8年(1723)、米将軍と呼ばれた吉宗は、江戸・京都・大坂の町奉行に物価沈静の方策を求めた。江戸の町奉行の大岡越前守が諏訪美濃守と連名で意見書を提出。これは、商人らが不当な利益を得ないように同業者の仲間組合を結成し、これによって仕入れ値を抑えて物価上昇を食い止めるという内容だった。

 

 享保9年2月、幕府は各町奉行に物価引き下げを命令するようになる。同11年には商業の組織化などが進み、問屋・仲買・小売りというように商人が細分化されるようになった。ただ、こうした政策の施行にも拘わらず、物価は沈静化に向かう兆しはなかった。

 

 そこで、幕府は新たな一手を打つことになる。まず、大名らによる米の貯蔵を求める一方、商人による買い米で米穀の供給を抑えることにより米価の引き下げに努めた。そのうえで、延取引を認めるようになった。従前の政策を転換し、新しい米価政策に着手したのだった。

 

 享保15年(1730)8月、大岡越前守は大坂・堂島米会所での帳合米取引=先物取引を公認するに至った。帳合米取引は賭博的な性質が強かったため、幕府は将軍のお膝元の江戸で取引を認めず、大坂だけに限定した。

 

 帳合米取引は投機的であったが、正米相場をリードする形で全国の米価の平準化、価格調整機能を発揮することで、米価の下げ止まりに貢献したとされる。それから135年後、米国シカゴ市場で商品先物取引が本格スタートした。堂島の米会所での帳合米取引がルーツだったことは案外知られていない事実だ。

 

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。