ジョン万次郎こと、ジョン万(中濱萬次郎)は、数奇な運命に翻弄され続けた一生を送った。米国カリフォルニアでのゴールドラッシュで儲けた資金で帰国したことは案外知られていない。(写真はyahoo画像から転載)

 

  ジョン万は1827年1月、土佐中濱村(高知県)の貧しい漁師の次男として生まれた。人生第一の転機が15歳のときだった。漁に出て仲間の漁師とともに遭難に遇い、数日間漂流した後、無人島の鳥島に漂着、そこで5カ月近く生活した。

 

  その後、米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長に救助され、船長に気に入られたジョン万は一緒に航海を続け、米国本土に渡り、ホイットフィールドの養子となった。この船名に因み、米国人から「John Mung(ジョン万)」の愛称で呼ばれるようになる。

 

  米国の学校に通ったジョン万は成績優秀、卒業してからは捕鯨船員として生活していた。ある日、ビッグ・ニュースが飛び込んできた。1848年、カリフォルニアで金鉱が発見され、同年12月に当時のポーク大統領が正式発表すると、ひと山当てようと世界中から山師たちが殺到した。

 

  「49年春から秋にかけて海陸双方から9万名、50年3万6000、51年2万7000、52年8万7000がカリフォルニアに押し寄せた。世界各国からもラッシュが続いたが、中国からは2万名が太平洋を渡ってきた。(中略)ゴールドラッシュが一段落した1860年のカリフォルニアは、38万の人口を擁していた」(越智道雄著『カリフォルニアの黄金』)。

 

  帰国を決意していたジョン万もこの話に飛び付いた。人生第二の転機でもあった。その資金を稼ぐためにゴールドラッシュで賑わうカリフォルニアを目指した。現地の金鉱山で採掘作業に従事、70日間で600ドルの巨利を博したという。

 

  ただ、どのような経緯で600ドルもの大金を手にすることができたのかについて、記録や資料がほとんど残されていない。とはいえ、ゴールドラッシュで金鉱山に飛び込んだ唯一の日本人とされるのがジョン万だった。

 

  帰国資金を得たジョン万は1851年、アドベンチャー号で薩摩藩が管轄していた琉球に上陸する。薩摩藩や幕府の長崎奉行所で尋問を受けた。このとき、彼の英語力、造船の知識に注目したのが薩摩藩主の島津斉彬だ。ジョン万は薩摩藩洋学校の英語講師に抜擢された。

 

  また、1860年には日米修好通商条約の批准で、遣米使節団の一人として勝海舟らとともに咸臨丸で渡米。明治維新後は開成学校(現在の東京大学)の教授に就任するなど大活躍した。ジョン万の波乱万丈な生涯を振り返れば返るほど、人生における偶然、必然の不可思議さを感じずにはいられない。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。