第5代国鉄総裁と知られる石田禮助(写真)。若き日に商社マンとして赴任した米シアトルを皮切りに、中国・大連での大豆取引、ニューヨーク駐在時にはスズ取引で天性の博才ぶりを発揮した。(写真はyahoo画像から転載)

 

  明治19年2月20日、静岡県松崎町に生まれた石田は、麻布中学、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を経て三井物産に入社した。30歳で米シアトル出張所長に抜擢された。ここから石田の博才が如何なく発揮されるようになる。船舶ビジネスで用船の操作で大きな利益を得たのだ。

 その後、カルカッタ(インド)に支店長専任として赴任。さらに、大連支店長として中国大陸に渡る。満州の特産品である大豆、大豆油、大豆粕、雑穀などを扱うようになった。当時、ロンドン支店長であった向井忠晴(後の会長)の進言によるものだった。石田が40歳、大正15年のことだった。

 「石田はその相場勘と度胸で大豆の商いを伸ばして行った。大豆、豆粕、豆油、雑穀-すべてが相場商品である。これを銀建てで買うが、その銀相場もまた動く。売るのはポンド建てだが、これもまた動き、さらに輸送するための船賃もまた変動がはげしかった」(城山三郎著「『粗にして野だが卑ではない』-石田禮助の一生」)。

 石田はリスクの大きい青田買いという一種の先物取引に乗り出すが、事前に十分な調査に余念がなかったそうだ。品質のよい大豆は満州北部で生産されている。青田買いの契約を履行させるためには現地へ社員を派遣しなければならなかったが、寒さに加え治安がよくないなど悪条件が重なっていた。

 そこで石田は一計を案じる。南満州鉄道の守備隊で任務を終えた隊員を採用したのだ。彼らは大豆の受け渡しだけでなく、新規の買い付けまで担当するようになる。昭和5年頃には満州産大豆の輸出高の6割を三井物産が扱うようになった。

 大連駐在時の実績を買われ、石田は45歳でニューヨーク支店長に転じた。相場師としての嗅覚か、石田が目に付けたのがスズ取引であった。本社の営業部長に転じていた向井は「ディーラーの自殺者を出すのが多いのがスズだ。ニューヨークではスズだけはよせ」と忠告した。

 根っからの相場好きである石田はこれを素直に受け入れなかったが、慎重な商いを心掛け、大局観から相場を見通すことにした。非鉄金属取引に秀でていた平島俊朗を部下としてニューヨークに帯同させた。平島の勝負師としての力量に目を付けたのだ。結果、三井物産は米国からのスズ輸入量の3割近くを占めるようになる。相場を張る上で、石田が一番傾注したのは「情報収集」であったという。

 石田はその後、昭和38年から44年にかけて第5代国鉄総裁として辣腕を振るった。三河島事故などの不祥事が続き、引き受け手が見つからなかった国鉄総裁のポストだったが、石田に白羽の矢が立ったとき、78歳の老齢だった彼は「乃公出でずんば」(俺様が出なければ事態は解決しない)の心意気でこれを受け入れたのだった。

 

在原次郎

 コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。