ロシア政府は今年4月末、小麦やトウモロコシなどの穀物や、豆類の大豆、食用油の輸出を6月末で停止することを明らかにした。新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大で急速な景気悪化を食い止めるため、国内への安定供給を優先するとしたが、ロシアの真の狙いは「外交上、穀物を政治利用するため」との指摘もあり、その動向が注目された。(写真はロイターから引用)

 穀物禁輸措置について当時、「プーチン大統領の支持率が過去最低を記録するなど、憲法改正法案の是非を問う全国投票を見据え、穀物を政治利用しようとしている」(欧州のシンクタンク研究員)との見方が出た。

 食の安全保障上、穀物禁輸で大きな影響が及ぶと懸念されたのが、ロシアから小麦などを輸入する欧州諸国だ。発表当時、サウジアラビアなどが輸出制限の対象国から外れたこともあり、前出の研究員は「禁輸する国を選別したことでロシア政府の意図が分かる」とした。

 5月半ばには、1990年代にロシアとポーランドとの政府間で交わした天然ガス輸送の通過ルートにかかわる取り決めで、欧州連合(EU)のルールに基づき、更新しないことが判明した。取り決めは5月末に失効するため、ロシアが欧州側にプレッシャーをかける目的で穀物禁輸を前倒しで発表したとの観測も浮上。欧州勢に対し、食の安全保障を脅かすことで、天然ガスなどのエネルギーを含め、ロシア依存からの脱却を食い止める思惑があるとされた。

 ところで、穀物を政治利用するという動きは旧ソ連時代からみられた。歴史を振り返ると、小麦などの穀物が外交上の武器として注目されたのは1972年に発覚した、ソ連による「穀物大泥棒事件」である。

 この事件は、ソ連政府が極秘裏に米国の小麦を大量に買い占めた出来事だ。結果として、穀物相場が暴騰することで米国民は高い食料品を買わされる羽目に陥るとともに、ソ連側との商談を仕切ったカーギルなど、穀物メジャーの存在を世の中に知らしめるきっかけにもなった。1970年代は「穀物が武器になった時代」とされる所以である。

 1979年末、ソ連軍によるアフガニスタン侵攻は米ソ間の緊張関係を一気に高めた。79年は第2次石油ショックの年でもあり、当時は原油がスポット価格で1バレル当たり30ドル台を付けるなど、世界的にインフレ懸念が広がっていた。他方、米国産大豆の生産量は3年連続の豊作(22億6,066万5,000ブッシェル)で、当時の過去最高を記録した年でもあった。

 アフガン侵攻のニュースが伝わるや否や、カーター米政権は1980年1月4日、対ソ経済制裁(穀物禁輸)を速やかに発動した。米政府は穀物禁輸を他の生産国にも呼びかけ、豪州やカナダなどが応じたものの、ブラジルやアルゼンチンは反旗を翻し、ソ連への穀物輸出を増やしたため、ソ連は食糧危機をかろうじて回避することができた。

 米国の穀物禁輸によって、年明けのシカゴ市場では大豆や小麦、トウモロコシ相場が急落した。大豆相場はその後もジリジリと値を下げ、1980年4月には1ブッシェル5ドル台まで下落し、3年ぶりの6ドル台割れとなった。豊作にもかかわらず、穀物禁輸となれば、生産者はお手上げだ。米政府は国際社会で赤っ恥をかかされたほか、国内では穀物価格の下落で収入減となった農家などから補償を求められるなど、カーター政権の失政に対する批判が高まった。

 1980年11月4日の米国大統領選挙で、共和党のロナルド・レーガン氏が圧勝、次期大統領に決まった。レーガン大統領は就任後の81年4月24日、カーター政権時代に発動された対ソ穀物禁輸をいち早く解除、同年10月には米ソ長期穀物協定を1年間暫定延長した。

 この間、レーガン大統領はカーター政権が実施した穀物禁輸の失敗を糧とし、交渉をうまくリードした。当時、ソ連は穀物調達費の捻出などで資金繰りが悪化、対西側債務が増加の一途を辿ったことで、外貨獲得のため、原油などの資源を売却しなければならない状況に追い込まれていた。

 一方、レーガン政権は高金利政策を徹底させることでソ連の外貨獲得を封じ込め、金価格の暴騰で得た資金での穀物調達を断念させる戦術をとり、これが奏功したとされた。米ソ冷戦時代は外交上の駆け引きで穀物が重要な役割を担っていた。

 昨今の米中貿易交渉で、中国に輸入増加を求めるトランプ米政権の主要品目に米国産大豆と液化天然ガス(LNG)がリストアップされたことは周知の通りだ。

 今年1月、米中は「第1段階の合意」で米国産大豆を大量に購入する約束をした。ところが、7月末に中国当局(海関総署)が公表したデータで、中国は6月にブラジル産大豆の購入を大幅に増やした(前年同月比91%増の1,051万トン)ことが判明。他方、6月の米国産大豆の輸入は前年同月比56.5%減の約26万7,000トンにとどまるなど、新たな穀物戦争の火種となりつつある。

 穀物禁輸の措置は、天候不順による農作物の凶作、甚大な自然災害や新型コロナウイルスの感染拡大などによる流通の遅延や供給途絶で輸出分を国内向けに切り替えるために発動されるのが一般的だ。他方、「食の安全保障」の視点でみた場合、外交上の駆け引き、政治主導者たちによる人為的な思惑から禁輸の手段に利用されることも見逃してはならないだろう。

 

 

阿部直哉 (「MIRUPLUS」編集代表)

 1960年、東京生まれ。慶大卒。Bloomberg News記者・エディターなどを経てCapitol Intelligence Group(ワシントンD.C.)の東京支局長。2020年12月からIRuniverseが運営するウェブサイト「MILUPLUS」の編集代表。

 1990年代に米シカゴに駐在。エネルギーやコモディティの視点から国際政治や世界経済を読み解く。

 著書に『コモディティ戦争―ニクソン・ショックから40年―』(藤原書店)、『ニュースでわかる「世界エネルギー事情」』(リム新書)など。